暴処法裁判更新意見(織田委員長)

更新意見

2010・5・13

織 田  陽 介

(1)本件は、法政大学における不当な学生運動弾圧事件である。

◎政治弾圧という本質
本件は法政大学をめぐる事件ですが、たまたま法政大学で偶然起きた事件でしょうか。そうではありません。4年間での118人を数える逮捕、この数ひとつとっても、法政大学で偶発的な事件が起きているのではないことは明らかです。

◎3・14弾圧
始まりは06年3月14日のいわゆる「3・14弾圧」です。立て看板の一方的な撤去に抗議した学生29名が、200名の公安警察によって逮捕された事件です。それ以来118名の逮捕、33名の起訴、停学や退学処分による学生の弾圧が横行している。
この逮捕につぐ逮捕の4年間は同時に、立て看板やビラ撒きの禁止、広場での集会の禁止、学祭の規制、さらに学生の団結体としての学友会の廃止まで含めて、学生の自由な活動が奪われていく過程でもあった。これが政治弾圧でなくてなんであろうか。

◎教育の民営化という全体像
ある大学の新入生に「なぜ法大だけこんなことになっているのか」と質問され、改めて考えさせられた。むしろ法政大学の今の状況こそ、すべての学生に普遍的な現実を示しているのではなかろうか。就職難、授業や単位、こうした「使い勝手の良い労働力商品」になるための競争によって支配されている学生が、こうしたあり方そのもの、つまり資本主義のあり方そのものとの根底的な対決を開始したときに、法政大学のような状況が現出されたのであって、学生への普遍的な支配が目に見える形で表現されているにすぎないのです。
また、こうした大学の急速な変貌は、法政大学だけの問題ではない。学生会館の解体や寮の民営化等々、「教育の民営化」という全大学のあり方をめぐる問題です。とりわけ法政大学は「営業権」なる権利をでっち上げ始めており、裁判所もこの権利を認め、入試におけるビラ撒きの禁止、つまり憲法を資本の論理によって乗り越える決定を行っている。理事会の金儲けのために多くの学生が奨学金という借金を背負わされ大学からたたき出されている。学生の未来を奪う金儲けに「教育」を語る資格があるのか。吸血鬼のように人間の生き血をすする権利が「人間が人間らしく生きる権利」として認められるとでもというのだろうか。

◎政治弾圧を前に、裁判所はいかなる中立性を保てるというのか。
検察は「これは政治弾圧だ」と堂々と語り、警察は厚顔無恥にも転向強要のための取り調べを平然と行ってきた。こうした政治弾圧の張本人たちが、口裏合わせのもと「証人尋問」なる茶番を繰り返している。裁判所は検察の意見を受け入れてこうした証人尋問を認めているが、こんなものに一体いかなる「中立性」を期待するのか。

(2)検事側立証の破綻とその本質

◎次回の裁判における計画すら示せない検察
本件が政治弾圧であるがゆえに、検察側の立証計画は完全に破綻している。次回の公判における立証計画すら示せない。こんな裁判妨害が許されるのか。

◎身体的拘束と転向強要こそが検事側立証の目的だった

私たちは7カ月半?8カ月半にわたって不当な勾留をうけた。検察は「学生証人がまだだから」と保釈を延ばしに延ばしてきた。これだけで一体どれだけの裁判妨害が行われたか。その核心は長期の身体的拘束による学生運動への妨害と転向強要であった。そして「出たければ反対尋問を短くせよ、認めよ」という人質司法そのものではなかったか。検察の立証計画は最初から事件を立証するためではなく、私たちを長期勾留するために作られていたのである。
しかし、保釈が勝ち取られ、こうした計画が破産している。これが今の現状です。こんな裁判がいまだに認められ、継続されていること自体が許しがたい。今すぐこんな裁判はやめよ。

◎目撃証言の皆無と破綻の拡大
何より検察側立証の破綻の核心は、目撃証人の皆無ということにつきます。防犯カメラを立証の核心に据えてきているが、これは目撃証言の裏付けとしての映像ではなく、逆に目撃証人がいないために防犯カメラをいかに「解釈するか」が問題にされているというどうしようもない現状が示されているのです。映像を解析する主体が、まさに弾圧職員や公安警察という弾圧主体であり、彼らの主観を媒介とした立証に何の意味もないことは明らかでしょう。

(3)暴処法とは何か。

◎団結を罪とする法体系の犯罪性

暴処法は、器物破損や暴行といった事件を、集団性=団結権・団体行動権の行使をもって適用対象の拡大と重罰化を行うというものです。まさに戦後法体系にはありえないものとしてある。
暴処法は、26年に治安維持法とセットで制定され、労働運動・学生運動や小作争議の弾圧に使われた法律である。裁判所はこうした法律をめぐって当然のように議論しているが、法学者として恥ずかしくないのだろうか。

◎であればこそ破綻性は明らか
暴処法は結局は見かけ倒しに過ぎなかった。屈せずに真正面から立ち向かえばもろいものであった。検察はいまだになぜ器物損壊事件ではなく暴処法事件として立件したのかを説明できない。国労5・27臨大闘争弾圧裁判では暴処法の立証ができず無罪が確定している。この事件も同じ岡本検事が主導するものです。本件も過激派であるとかいろいろ修飾をしているが、そんなものになんら本質的立証の内容などなく、何を言おうとも何の立証にもなっていないのであります。

◎暴処法は司法による憲法への死刑判決。改憲攻撃に裁判所は荷担するのか
5・18改憲国民投票法の施行、さらに裁判員制度は現代の赤紙と言われている。暴処法は平和な時代に現れた時代遅れの産物なのか、それとも時代そのものが暴処法の時代に回帰しているのか。問題は極めて鮮明です。人民の立ち上がる時代を前に、戦後憲法を押しのけ、裁判所が戦前を回顧し始めている。私たちは暴処法を粉砕すべく徹底的にこの裁判闘争を闘う。

(4)沖縄闘争の爆発の開始がこの裁判に問いかけるものは何か。学生には無限の可能性がある。

◎4・25沖縄県民大会10万人の爆発が示すもの

結局「普天間移設」は「辺野古案」に収斂されつつある。5月4日の鳩山訪沖は、さらに沖縄県民の怒りを爆発させ、5・28辺野古案発表に向かっている。もはや日米両政府には沖縄の問題を解決できない。日米安保同盟と沖縄人民が完全に非和解化している。もはや選択肢は二つしかない。国家権力の血の弾圧によって沖縄労働者階級人民が鎮圧され、1億の人民が虐殺された20世紀を引き継ぐ戦争の世紀の継続=「解決ならざる解決」か、それとも本土の労働者階級人民が連帯して決起し、基地、安保、そして戦争なくしては延命できない帝国主義体制そのものを打倒していくのかだ。
「なぜ今こんなことになっているのか」という疑問が大衆的に広がっている。しかし問題設定自体が逆です。なぜ帝国主義戦争と人民という非和解なものが和解させられてきたのか。そしてなぜそれが崩壊したのか。ここに時代認識の核心がある。新自由主義の破産としての大恐慌の爆発の開始、そしてその怒りの表現としての昨年8・30においてついに55年間続いてきた自民党支配が崩壊したことです。

◎問われているのは学生の行動
日本のたった1%の人民の動向が世界を揺さぶっている。沖縄は人事ではありません。問われているのは我々です。残り99%の日本労働者階級がいかなる態度と行動を取るのかが問われているのです。この世界を変えることはできる。学生にはその力がある。沖縄闘争が示しているのは学生の無限の可能性なのです。

◎学生は単なる商品か、それとも未来の体現者か。大学と学生の本質をかけた法大闘争
学生の無限の可能性を前に、法大の現実はいかなるものか。4月23日の法大集会に対して法大当局は、キャンパス中央広場を封鎖し、「見るな、考えるな、行動するな」という態度を貫いた。学生の可能性はそんなものなのか。学生の人生とは、大学資本の金儲けのカモとなってシャンシャンの人生なのか。そうではない。学生の誇りとは、未来の体現者としての自己の態度と行動が世界を規定しているということにあるのだ。法大闘争は、大学とは何か、学生とはいかなる存在かをかけた重大な闘いなのである。

(5)最後に

◎本件は政治弾圧であり、であるからこそ検事側立証は全面的に破綻している。裁判所はただちに裁判を中止しなければならない。

◎いかなる中立性もありえない政治裁判であるからこそ、我々の回答は転向強要に屈せずに闘いへと転化することにある。法大闘争は、4年間の弾圧の嵐をくぐり抜け、ついに組織拡大の過程に入った。裁判への回答は、キャンパスでこそ、学生の団結した闘いでこそ出され始めているのである。

◎政治弾圧を追認している裁判所に対し、改めて弾劾の意思を表明したい。

裁判所には、法が世界を規定しているという観念があるようですが、裁判所はしょせん現実を追認しているに過ぎない。
マルクスが人間を、協働して自然を変革し、変革された自然を認識する無限の意識活動を持つ類的存在と規定したように、世界を実践的に変革し、変革した世界を認識していくことにおいて人間の認識活動は無限性を獲得するのであります。つまり資本主義社会において完全に鮮明となった精神労働と肉体労働の分裂を突き破り、客体情勢の主体化と、主体の客体情勢化をもって、実践者と認識者の統一を実現していく組織的実践の中にこそ、真に世界を把握し、また変革する力が宿るのであります。逆に言えば、実践者と認識者の分裂と対立は、法を人間の共同性という真に人間的規律から切り離し、実践なき精神として観念の世界に追いやり、実践的変革なきたんなる現実の追認者としての性格を固定化しているのであります。
現在世界で開始されている労働者階級の革命的闘いは、こうした法の限界性を明確に突破し、真に人間の可能性を奪還するものとしてあります。その一端を法大闘争は担っていると考えます。私は裁判所による政治弾圧の追認を断乎として弾劾するとともに、こうした法の限界性も越えた闘争をもってこの現実に応える決意です。法が人民の闘いによって粉砕されようと、もそれは法の止揚として歓迎すべき事態であろうと考えます。

以上。

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