日刊レーニン61号(7月5日)

   5日の午前4時。「ラ・マルセイエーズ」の演奏とともに首都守備軍の3連隊がタヴリーダ宮殿に登場した。政府、ソビエト中央に忠実な部隊=反革命部隊が登場したのだ。執行委員会の右派、社会協調派は勝ち誇って左派を見返した。メンシェビキ国際派のマルトフは「反革命の始まりの典型的な光景だ」と憤慨してつぶやいた。右派は、「武装反乱は革命に忠実な軍隊によって鎮圧されるだろう」「ボルシェビキを永久に始末する必要がある」とうそぶいた。   今や社会協調派の握る執行委員会と「忠実な部隊」に支えられ、臨時政府は反革命テロリズムを開始する。

   ペレヴェルゼフ法相は、武装デモが終わろうとした4日午後5時ごろ、首都とその周辺から80人以上の軍の代表と報道関係者を大臣執務室に招き、「レーニン=ドイツのスパイ」の「証拠」資料を公表した。ペレヴェルゼフ法相のたくらみは、ソビエト執行委員会にも漏れてきた。この情報を信じないチヘイゼとツェレチェリは、執行委員会の名で、ペトログラートの各日刊紙編集局に政府発表を報道しないよう電話で要請した。リヴォーフ首相もそれに応じた。社会協調派と政府は信頼すべき軍隊が到着しないうちはボルシェビキとの正面対決を恐れていたのだ。

    しかし、反革命的軍隊の登場と5日朝、黒百人組系の大衆紙一紙だけが「レーニン、ガネツキーらがスパイ活動」という見出しを掲げて発行した時、2日間行われた武装デモへのブルジョアジーの恐怖は、革命派への増悪となって現れた。5日午前6時、機関銃で武装したユンケルや兵士がプラウダ編集局を破壊した。レーニンは4日、ペレヴェルゼフ法相が「レーニン=スパイ」説を流した事を知った時、「今や我々を撃ち殺そうとしている。彼らにとって最も有利な状況だ」とトロツキーに語り、本日の朝にスヴェルドローフと共に党本部を抜け出し、知人のアパートに隠れた。反革命部的軍隊が首都を制圧し始めた。

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