100 年前の本日。ボルシェビキが労働者・兵士にデモを呼びかける一方、政府は「あらゆる武装デモを無条件に禁止する」という声明を発表した。政府と全ロシア中央執行委員会はデモの弾圧のために前線の部隊を呼び戻さなければならなかった。 午前 11 時、ついに前日を上回る武装デモが開始された。労働者・兵士たちは、政府とソビエト中央のデモ禁止令を打ち破ったのだ。武装デモには、首都の工場や連隊のほか、首都近郊から多くの労働者・兵士が参加した。その総数は兵士が4 ~ 6万。労働者が 30~35 万人という大規模なものとなった。
機関銃兵第1連隊が赤衛隊のトラックを伴って首都の主要地点を占拠した。クロンシュタットから来た約1万人の水兵・兵士・労働者がネヴァ川からペトログラートに上陸した。水兵たちは軍楽隊に率いられ「全権力をソビエトへ!」という旗印を掲げて行進した。長蛇の列が続いた。ボルシェビキ本部の前では、スヴェルドローフ、ルナチャルスキーらがバルコニーから演説した。
一方、フィンランドで休養していたレーニンのもとへ午前6時、ボルシェビキ中央委員会の使者がやってきて指導を仰いだ。レーニンは午前 11 時にフィンランド駅に到着し、直ちにクシェシンスカヤ邸のボルシェビキ党本部に入った。
レーニンも水兵の強い要求で短い演説をした。病気で少ししか話せない事をことわりながら「『すべての権力をソビエトへ』という我々のスローガンは、歴史の道がどんなにジグザジなものであろうとも必ず勝利する。諸君、堅忍不抜であれ。警戒をおこたってはならない」。
デモ隊はタブリーダ宮殿に向かった。デモ隊がブルジョア街のリチェイヌイ通りへ曲がると、隊列後方で銃撃が加えられた。不意をつかれたデモ隊はパニックになり隊列を崩した。デモ隊の兵士達はあらゆる方向に展開、応戦した。銃撃戦が終わるとタヴリーダ宮殿への行進を再開。武装したデモ隊参加者はいつでも銃撃できるように銃を構えて行進した。この他にも、午後 9 時ごろにも、革命派の機関紙銃兵第1連隊と政府側のカザーク2個中隊との衝突が起きた。
午後 4 時ごろタヴリーダ宮殿についたクロンシュタット水兵は建物に入っていった。彼らはペレヴェルゼフ法相に面会を申し込み、なぜ 19 日にアナーキストを逮捕したのかを釈明することを要求したが、法相は出て来なかった。どの大臣にも責任があるという叫び声が上がった。群衆はツェレテーリを逮捕しようとしたが、人混みをすり抜け逃げおおせた。
続いてチェルノーフが群衆をなだめようとして出てきた。群衆が取り囲む。チェルノーフは 2 日に辞任したカデット閣僚たちについて「せいせいした!」と軽蔑的な言葉を吐いてみせた。群衆は「じゃあ、お前はなぜもっと早くそう言わなかったんだ !? 」と叫んだ。ひとりの労働者は激怒し、チェルノーフの顔に拳をつきつけて迫った。「お前に権力をやると言っているんだから取ったらどうだ!」
このことは4 日の武装デモの本質を示している。社会協調派にブルジョアジーと手を切らせ、ソビエトの公式の政策を変更させることを政治目的として決行されたのだ。
労働者・兵士大衆はソビエトに国家権力を引き渡そうとしたが、いまだ社会協調派が多数派を占めるソビエト中央執行委員会はこれを拒絶し、革命派を武力弾圧するためにブルジョア権力とますます一体化しようとしていた。デモと直接行動によってはソビエトの政策転換は実現しなかったのだ。大衆は場末町に引き返し、翌日の闘争再開は考えなかった。「全権力をソビエトへ」という課題の実現が考えていたよりもずっと複雑であることを知った。