ソビエト両執行委員会、つまり社会協調派は「一切の示威行動は革命に対する裏切り行為である」という宣言を採択した。メンシェビキは武装デモを口を極めて非難した。「街頭には革命的な人民がいるが、彼らは反革命的な活動に従事している」と述べた。ツェレチェリは「ソビエトがそれを望めば権力はいつでもソビエトの手中に移ってくるであろう…このような示威行動は革命に沿っていない。反革命の道に沿っている」と言い放った。デモを「反乱」と呼び、武力弾圧の準備を開始した。彼らは、首都守備軍に臨時政府と執行委員会を防衛するために、武器や部隊をタヴリーダ宮殿に送れという命令を発した。だが、この要請に応じた兵士は 100 人しかいなかった。軍隊は、デモ鎮圧の理由に確信がもてず、態度を決めかねていた。 タヴリーダ宮殿に到着したデモ隊は宮殿を完全に包囲し、「権力を取れ」と何度も叫んだ。執行委員会はこれに対して、沈黙を守り鎮圧部隊が到着するまで時間稼ぎをしていた。
深夜、両執行委員会合同会議に出席していないボルシェビキとメジライオンツィイはタヴリーダ宮殿の別室で合同会議を開いた。4日の示威運動を中止すべきか、その先頭に立つべきかが討論された。
宮殿の庭にはプチーロフ工場の労働者が寝転んで方針提起を待っていた。ボルシェビキのラスコーリニコフがクロンシュタットから電話で基地守備隊が明朝ペトログラートに出発すると伝えてきた。クロンシュタット水兵が 4 日の労働者・兵士のデモを支持・防衛に来るのだ。
これが決定打になった。ボルシェビキ・メジライオンツィイ両執行部会議は、4日のデモ参加の先頭に立つことに決めた。「街頭へ!」と題した訴えは「平和的で組織なデモによって自分達の意思に対する執行委員会の注意を喚起しよう」と呼びかけていた。これは4日朝のビラとして出された。4日朝の『プラウダ』に掲載される予定の「デモを中止しよう」というボルシェビキ中央委員会の3日午後のアピールは没にされた。差し替えは間に合わない。
歴史的な4日の武装デモ。その4日の朝に向けて発行される『プラウダ』一面は空白で発行される事となる。