100 年前の本日。朝、機関銃兵第1連隊は連隊総会を開いた。街頭行動が協議され、総会議長のボルシェビキのゴローヴィンは行動を延期しようとしたが、兵士をいらだたせるだけだった。そこにブレイフマンが現れ、「武装デモで自らの要求を支える」よう熱烈な演説をした。兵士はこれを支持し、抑制をかけるボルシェビキは憤慨した兵士に圧倒されてしまった。ボルシェビキの機関銃兵連隊のセマーシコ少尉補は「開始された運動を止めることは出来ない」と断言した。行動方針はアナーキストの主張に沿って行われ、政治目的はボルシェビキの主張に近かった。午後 5 時に武装デモを開始することを全会一致で決定した。最後に連隊委員会に代えて臨時革命委員会が選ばれ、委員長にはセマーシコがなった。午後 2 時だった。 機関銃兵は政府の対抗手段を警戒し、市内のパトロール、自動車の没収を始めた。工場のと他の連隊、クロンシュタットに使者を送り、武装デモへの参加を扇動した。多くの連隊・工場がデモ決起を決議し、それは一気に拡大していった。
午後 3 時、ボルシェビキは不意を食らった。クシェシンスカヤ邸で開かれていたボルシェビキ・ペトログラート全市協議会に 2 人の機関銃兵代表が現れ、武装デモを決定してことを報告した。トムスキーは機関銃兵を説得したが、失敗。機関銃兵は抗議し、立ち去った。
午後 4 時、ボルシェビキ中央委員会はペトログラート協議会の決定を確認し、指導メンバーは、街頭行動を抑制するために各地区・各工場に散った。同じ趣旨のアピールが翌朝の『プラウダ』の第一面に印刷されるべく印刷所に送られた。
夕方、ペトログラートの労働者・兵士が武装デモに決起した。「7月事件」が始まったのだ。各労働者が続々と街頭に現れ、赤衛隊が武装して隊列を組んだ。デモ隊は2つに分かれた。一方はソビエトがあるタヴリーダ宮殿、他方は政府があるマリヤ宮殿に向かった。
デモ開始の知らせを聞いたタヴリーダ宮殿のボルシェビキ指導部は驚き、おののいた。ジノーヴィエフ、カーメネフ、トロツキーは、午後7時から行われていたソビエト労働者部会に出席していた。彼らは失敗した場合も考え、より公的な機関をデモに関与させようと考えた。ソビエト改選で、すでにボルシェビキ―革命派が3分の2を占めるようになっていた労働者部会がソビエトへの全権力の移行とソビエト自らのデモを組織することを決議し、兵士部会と執行委員会にこの事実を突きつけた。
午後 10 時タヴリーダ宮殿前に到着しつつあったデモ隊は、労働者部会の決議を聞いて歓喜した。連隊は「 10 人のブルジョア大臣の罷免、全権力のソビエトの移譲、攻勢の中止」などを要求した。
同じく午後 10 時、でボルシェビキ中央委員会を開いていたクシェンシスカヤ邸前にデモ隊が近づいてきた。ボルシェビキ中央委員会はバルコニーから兵士に帰営を訴えたが、兵士は「引っ込め!」と答えた。ボリシェビキ指導部は方針転換を迫られた。だが、数千人のプチーロフ工場の労働者が妻子と一緒にタヴリーダ宮殿に向かっているという話を聞いて、躊躇は消えた。ペトログラート委員会は、「組織的に行動し、平和的にダブリーダ宮殿に行進して、代表をとおして自らの要求を表明するよう」提案し、発表した。運動は党によって合法化された。クシェシスカヤ邸に集まった兵士・労働者大衆はこれに大歓迎した。
?に続く。