日刊レーニン57号(7月2日)

100年前の本日。臨時政府のカデット4閣僚が辞任した。ウクライナ中央ラーダ総書記局(ウクライナの事実上の自治政府)に大幅に譲歩した協定を閣議で承認したことへの反発だ。真の理由はチェルノーフなどの協調主義者が大衆を抑え込むのにぐずぐずしていることだった。ここに第一次連立政権は崩壊した。他方、政府危機の中、ボルシェビキは「人民の家」で機関銃兵第1連隊を招いて集会を開いた。5000人を超える兵士に演説したメジライオンツィのトロツキーとルナチャルスキーは、6月攻勢を批判し、武装デモの方針は控えながらもソビエトへの全権力の移行を訴えた。集会はボルシェビキ軍組織の働きかけでトロツキー演説と同じ趣旨の決議を採択した。しかし、兵士たちの中に武装デモを要求する声が高まっていったた。

同日、アナーキストの指導部も会議を開いた。ペトログラート・アナーキスト=コムニスト連盟のブレイフマンや機関銃兵・水兵代表が出席し、3日に「臨時政府打倒!」の武装闘争を行うことを決定した。さらに、ケレンスキーら大臣たちの逮捕、駅などの主要拠点の占拠などの計画が立てられ、この決定に基づいて扇動が開始された。

抑えきれないものが噴き出し始める。

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