100年前の本日。11日午後5時、ソビエト大会議長団、ペトログラート・ソビエト執行委員会、ソビエト大会各派事務局など約100人、全党派の指導者が集まって合同会議を開いた。 まず、メンシェビキのダンがボルシェビキの6・10デモ計画を「政治的冒険」と弾劾した。ツェレテーリはさらに右から批判する。「起きたことは陰謀以外の何ものでもない。政府転覆と…ボルシェビキによる権力奪取の陰謀である。…反革命は唯一の戸口、ボルシェビキを通ってのみ我々のところに進入できる。…武器を自己の手に正しく持てない革命家からは、武器を取り上げなければならない。ボルシェビキを武装解除しなくてはならない」
ツェレテーリは君主主義反革命分子の陰謀を口実にしてデモを中止に追い込んだが、2月革命以後は労働者、兵士の武装によって明確に維持されてきた。「ボルシェビキの武装解除」とは労働者と兵士の武装解除を意味していた。大会代表者たちは社会主義者としてこれに納得しかねた。ボルシェビキ代表団は抗議・退場した。トロツキーはボルシェビキの立場を擁護し、デモ計画を全面的に支持して、社会協調派の連立路線を厳しく攻撃した。メンシェビキ国際派のマルトフもツェレテーリの反革命を鋭く批判した。
レーニンは11日のボルシェビキ・ペトログラート委員会で「このとりやめは無条件に必要であった」と総括し、ツェレテーリの反革命性を弾劾し、平和的なデモさえ許されない情勢では「最大限の冷静、慎重、忍耐、組織性」が必要であり、「ブルジョア反革命に襲撃の口実を与えてはならない」と自重を促した。大衆は10日のデモ中止のボルシェビキの決定に従ったが、決して抗議や怒りなしに従ったわけではなかった。各地区のもっとも怒った労働者たちは、党員証を破り捨てた。
結局、社会協調派が労働者の武装解除を断念せねばならなかった。ソビエト代表団は思い知ったことは大衆の中でのボリシェビキが優位だった。しかし、この事は全人民的に明らかになっていなかった。隠然としたものが、公然となる一点が近づいていた。