セクト系とされる学生団体の「大会」と聴くといいイメージがないのは私だけではないと思います。活動家学生ばっかりの大会だとわけのわからん空理空論の神学論争が繰り広げられてわけがわからないし、かといって一般学生を相手にした大会であったらともすれば大会決議に政治的主張をいれていても提起ではさらっと流してそのまま決を採るようなものもある。どちらにせよなんの意義があるのかよくわからない。その点今回参加させていただいた白ヘルの皆さんの全学連大会はよくバランスがとれていて、ずぶの素人の私も楽しく参加できました。執行部からの提起や各大学の活動家からの報告は、実際に学生と相対する立場での実践に裏打ちされた小さな窓から、理論につらぬかれた大きな景色が見えるようなものでした。とりわけ京都大学の諸活動家からの報告には、一般学生と活動家学生ないしは活動家集団という主体と主体のぶつかり合いの苦闘と、それをのりこえる展望とがしっかりと示されていて、非常に刺激的なものでした。
ところで、参加する前から全学連の姿勢の(いい意味での)「軟化」に驚いています。以前の全学連の発言には自分たちの潮流以外の学生自治組織ないし学生運動をあたかも存在しないかのように扱ったものもあったと思いますが、今年の大会ではかかわりのないだろう自治会(民青全学連も!)にまで招請をしていましたし、(他の方の感想文にも出ていますが)実際に潮流外の学生自治団体からの参加があったことはびっくりです。今おそらく唯一目立った活動をしちる学生運動組織である全学連が、こうして運動のすそ野を広げていっている事実はまさしく目を見張るべきことであるし見習うべきものがあると感じ入っています。
さて、全国の学生が共通してされされている問題ないし「攻撃」については再三とりあげられ、それにたいする大きな景色としての大学ストライキ路線が示されましたが、そこへ向けて如何に全国の学生を具体的に方向づけていくのかという議論が思ったほど多くはありませんでした。これは全学連大会で話すような性質ではない議題だったのかもしれませんが、これはすこし気になりました。活動家の皆さんは当然思想を同じくしているからこのように集まって同じ大きな景色を見ているわけだけれども、それをどのようにアウトリーチしていくのか。小さな窓から入っていくしかないにしても、大会での報告を聴いていてもあるいは私の実感からしても、西日本の学生と東京近郊の学生とが置かれている状況だって著しく異なる部分があるわけですが、それをどう乗り越えていくのか。当然、方針のひとつとして掲げられた「過渡的スローガン」が窓から景色への方向づけであることは重々わかってはいるのですが、それをどう運動のない大学や運動を知らない学生に展開して、学生運動という代物にいかに巻き込んでいくのかというところは是非議論したかったところです。
ともかく、私のように運動や組織のない場所にいる孤立した浅はかな活動家未満の左翼かぶれ学生、にわか共産主義者(あるいは趣味者?)にとっては、白ヘル全学連の皆さんはひとつの指針であるし見本です。ここから一年、この運動が、ひいては学生運動全体が爆発するように、私も共に奮闘していけたらと思います。