日刊レーニン60号(7月4日)

   100 年前の本日。ボルシェビキが労働者・兵士にデモを呼びかける一方、政府は「あらゆる武装デモを無条件に禁止する」という声明を発表した。政府と全ロシア中央執行委員会はデモの弾圧のために前線の部隊を呼び戻さなければならなかった。   午前 11 時、ついに前日を上回る武装デモが開始された。労働者・兵士たちは、政府とソビエト中央のデモ禁止令を打ち破ったのだ。武装デモには、首都の工場や連隊のほか、首都近郊から多くの労働者・兵士が参加した。その総数は兵士が4 ~ 6万。労働者が 30~35 万人という大規模なものとなった。

機関銃兵第1連隊が赤衛隊のトラックを伴って首都の主要地点を占拠した。クロンシュタットから来た約1万人の水兵・兵士・労働者がネヴァ川からペトログラートに上陸した。水兵たちは軍楽隊に率いられ「全権力をソビエトへ!」という旗印を掲げて行進した。長蛇の列が続いた。ボルシェビキ本部の前では、スヴェルドローフ、ルナチャルスキーらがバルコニーから演説した。

一方、フィンランドで休養していたレーニンのもとへ午前6時、ボルシェビキ中央委員会の使者がやってきて指導を仰いだ。レーニンは午前 11 時にフィンランド駅に到着し、直ちにクシェシンスカヤ邸のボルシェビキ党本部に入った。

レーニンも水兵の強い要求で短い演説をした。病気で少ししか話せない事をことわりながら「『すべての権力をソビエトへ』という我々のスローガンは、歴史の道がどんなにジグザジなものであろうとも必ず勝利する。諸君、堅忍不抜であれ。警戒をおこたってはならない」。

デモ隊はタブリーダ宮殿に向かった。デモ隊がブルジョア街のリチェイヌイ通りへ曲がると、隊列後方で銃撃が加えられた。不意をつかれたデモ隊はパニックになり隊列を崩した。デモ隊の兵士達はあらゆる方向に展開、応戦した。銃撃戦が終わるとタヴリーダ宮殿への行進を再開。武装したデモ隊参加者はいつでも銃撃できるように銃を構えて行進した。この他にも、午後 9 時ごろにも、革命派の機関紙銃兵第1連隊と政府側のカザーク2個中隊との衝突が起きた。

午後 4 時ごろタヴリーダ宮殿についたクロンシュタット水兵は建物に入っていった。彼らはペレヴェルゼフ法相に面会を申し込み、なぜ 19 日にアナーキストを逮捕したのかを釈明することを要求したが、法相は出て来なかった。どの大臣にも責任があるという叫び声が上がった。群衆はツェレテーリを逮捕しようとしたが、人混みをすり抜け逃げおおせた。

続いてチェルノーフが群衆をなだめようとして出てきた。群衆が取り囲む。チェルノーフは 2 日に辞任したカデット閣僚たちについて「せいせいした!」と軽蔑的な言葉を吐いてみせた。群衆は「じゃあ、お前はなぜもっと早くそう言わなかったんだ !? 」と叫んだ。ひとりの労働者は激怒し、チェルノーフの顔に拳をつきつけて迫った。「お前に権力をやると言っているんだから取ったらどうだ!」

このことは4 日の武装デモの本質を示している。社会協調派にブルジョアジーと手を切らせ、ソビエトの公式の政策を変更させることを政治目的として決行されたのだ。

労働者・兵士大衆はソビエトに国家権力を引き渡そうとしたが、いまだ社会協調派が多数派を占めるソビエト中央執行委員会はこれを拒絶し、革命派を武力弾圧するためにブルジョア権力とますます一体化しようとしていた。デモと直接行動によってはソビエトの政策転換は実現しなかったのだ。大衆は場末町に引き返し、翌日の闘争再開は考えなかった。「全権力をソビエトへ」という課題の実現が考えていたよりもずっと複雑であることを知った。

日刊レーニン59号(7月3日②)

ソビエト両執行委員会、つまり社会協調派は「一切の示威行動は革命に対する裏切り行為である」という宣言を採択した。メンシェビキは武装デモを口を極めて非難した。「街頭には革命的な人民がいるが、彼らは反革命的な活動に従事している」と述べた。ツェレチェリは「ソビエトがそれを望めば権力はいつでもソビエトの手中に移ってくるであろう…このような示威行動は革命に沿っていない。反革命の道に沿っている」と言い放った。デモを「反乱」と呼び、武力弾圧の準備を開始した。彼らは、首都守備軍に臨時政府と執行委員会を防衛するために、武器や部隊をタヴリーダ宮殿に送れという命令を発した。だが、この要請に応じた兵士は 100 人しかいなかった。軍隊は、デモ鎮圧の理由に確信がもてず、態度を決めかねていた。 タヴリーダ宮殿に到着したデモ隊は宮殿を完全に包囲し、「権力を取れ」と何度も叫んだ。執行委員会はこれに対して、沈黙を守り鎮圧部隊が到着するまで時間稼ぎをしていた。

深夜、両執行委員会合同会議に出席していないボルシェビキとメジライオンツィイはタヴリーダ宮殿の別室で合同会議を開いた。4日の示威運動を中止すべきか、その先頭に立つべきかが討論された。

宮殿の庭にはプチーロフ工場の労働者が寝転んで方針提起を待っていた。ボルシェビキのラスコーリニコフがクロンシュタットから電話で基地守備隊が明朝ペトログラートに出発すると伝えてきた。クロンシュタット水兵が 4 日の労働者・兵士のデモを支持・防衛に来るのだ。

これが決定打になった。ボルシェビキ・メジライオンツィイ両執行部会議は、4日のデモ参加の先頭に立つことに決めた。「街頭へ!」と題した訴えは「平和的で組織なデモによって自分達の意思に対する執行委員会の注意を喚起しよう」と呼びかけていた。これは4日朝のビラとして出された。4日朝の『プラウダ』に掲載される予定の「デモを中止しよう」というボルシェビキ中央委員会の3日午後のアピールは没にされた。差し替えは間に合わない。

歴史的な4日の武装デモ。その4日の朝に向けて発行される『プラウダ』一面は空白で発行される事となる。

日刊レーニン58号(7月3日①)

    100 年前の本日。朝、機関銃兵第1連隊は連隊総会を開いた。街頭行動が協議され、総会議長のボルシェビキのゴローヴィンは行動を延期しようとしたが、兵士をいらだたせるだけだった。そこにブレイフマンが現れ、「武装デモで自らの要求を支える」よう熱烈な演説をした。兵士はこれを支持し、抑制をかけるボルシェビキは憤慨した兵士に圧倒されてしまった。ボルシェビキの機関銃兵連隊のセマーシコ少尉補は「開始された運動を止めることは出来ない」と断言した。行動方針はアナーキストの主張に沿って行われ、政治目的はボルシェビキの主張に近かった。午後 5 時に武装デモを開始することを全会一致で決定した。最後に連隊委員会に代えて臨時革命委員会が選ばれ、委員長にはセマーシコがなった。午後 2 時だった。   機関銃兵は政府の対抗手段を警戒し、市内のパトロール、自動車の没収を始めた。工場のと他の連隊、クロンシュタットに使者を送り、武装デモへの参加を扇動した。多くの連隊・工場がデモ決起を決議し、それは一気に拡大していった。

午後 3 時、ボルシェビキは不意を食らった。クシェシンスカヤ邸で開かれていたボルシェビキ・ペトログラート全市協議会に 2 人の機関銃兵代表が現れ、武装デモを決定してことを報告した。トムスキーは機関銃兵を説得したが、失敗。機関銃兵は抗議し、立ち去った。

午後 4 時、ボルシェビキ中央委員会はペトログラート協議会の決定を確認し、指導メンバーは、街頭行動を抑制するために各地区・各工場に散った。同じ趣旨のアピールが翌朝の『プラウダ』の第一面に印刷されるべく印刷所に送られた。

夕方、ペトログラートの労働者・兵士が武装デモに決起した。「7月事件」が始まったのだ。各労働者が続々と街頭に現れ、赤衛隊が武装して隊列を組んだ。デモ隊は2つに分かれた。一方はソビエトがあるタヴリーダ宮殿、他方は政府があるマリヤ宮殿に向かった。

デモ開始の知らせを聞いたタヴリーダ宮殿のボルシェビキ指導部は驚き、おののいた。ジノーヴィエフ、カーメネフ、トロツキーは、午後7時から行われていたソビエト労働者部会に出席していた。彼らは失敗した場合も考え、より公的な機関をデモに関与させようと考えた。ソビエト改選で、すでにボルシェビキ―革命派が3分の2を占めるようになっていた労働者部会がソビエトへの全権力の移行とソビエト自らのデモを組織することを決議し、兵士部会と執行委員会にこの事実を突きつけた。

午後 10 時タヴリーダ宮殿前に到着しつつあったデモ隊は、労働者部会の決議を聞いて歓喜した。連隊は「 10 人のブルジョア大臣の罷免、全権力のソビエトの移譲、攻勢の中止」などを要求した。

同じく午後 10 時、でボルシェビキ中央委員会を開いていたクシェンシスカヤ邸前にデモ隊が近づいてきた。ボルシェビキ中央委員会はバルコニーから兵士に帰営を訴えたが、兵士は「引っ込め!」と答えた。ボリシェビキ指導部は方針転換を迫られた。だが、数千人のプチーロフ工場の労働者が妻子と一緒にタヴリーダ宮殿に向かっているという話を聞いて、躊躇は消えた。ペトログラート委員会は、「組織的に行動し、平和的にダブリーダ宮殿に行進して、代表をとおして自らの要求を表明するよう」提案し、発表した。運動は党によって合法化された。クシェシスカヤ邸に集まった兵士・労働者大衆はこれに大歓迎した。
②に続く。

日刊レーニン57号(7月2日)

100年前の本日。臨時政府のカデット4閣僚が辞任した。ウクライナ中央ラーダ総書記局(ウクライナの事実上の自治政府)に大幅に譲歩した協定を閣議で承認したことへの反発だ。真の理由はチェルノーフなどの協調主義者が大衆を抑え込むのにぐずぐずしていることだった。ここに第一次連立政権は崩壊した。他方、政府危機の中、ボルシェビキは「人民の家」で機関銃兵第1連隊を招いて集会を開いた。5000人を超える兵士に演説したメジライオンツィのトロツキーとルナチャルスキーは、6月攻勢を批判し、武装デモの方針は控えながらもソビエトへの全権力の移行を訴えた。集会はボルシェビキ軍組織の働きかけでトロツキー演説と同じ趣旨の決議を採択した。しかし、兵士たちの中に武装デモを要求する声が高まっていったた。

同日、アナーキストの指導部も会議を開いた。ペトログラート・アナーキスト=コムニスト連盟のブレイフマンや機関銃兵・水兵代表が出席し、3日に「臨時政府打倒!」の武装闘争を行うことを決定した。さらに、ケレンスキーら大臣たちの逮捕、駅などの主要拠点の占拠などの計画が立てられ、この決定に基づいて扇動が開始された。

抑えきれないものが噴き出し始める。

日刊レーニン56号(6月29日)

100年前の本日のレーニン。レーニンは、全ロシア・ソビエト第1回会議(6月3~24日)の激闘を闘い抜いて体調を崩した。レーニンはフィンランドの別荘に移って休養をとる。レーニンはいつもそうだ。党大会や重要な会議の後は、張り詰めた精神と緊張が切れて、疲労困憊するのだ。しかし、伏せっているレーニンを尻目に抑えきれない大衆の怒りが7月大武装デモに向かって進んでいく 。

北島くにひこが2度目の特別出演!前進チャンネル第9回「安倍を監獄へ 小池倒せ!」前進2856号(6/29付)

日刊レーニン55号(6月27日)

100年前の本日のレーニン。本日のレーニンは、『プラウダ』に「階級的変動」「革命的エネルギーの奇跡」を掲載した。

18日とデモと夏期攻勢後、首都の情勢は再び緊迫し、労働者・兵士は武装して街頭へ出ようという機運を高めていた。 

18日の反動として、ペレヴェゼフ法相は19日にアナーキストの拠点であったドルノヴォー別邸を急襲し、アナーキストの指導者を射殺、全員を逮捕した。20日には、ケレンスキー陸海相は機関銃第一連隊の機関銃500挺と部隊を前線へ送れと命令した。機関銃第一連隊はボルシェビキの軍事組織の拠点であり、その目的は連隊の解体である事は明白だった。

21日、連隊は会合を開き、「『革命的な戦争』のためのみ前線へ行くであろう」と決議。また同時に「全権力が労兵ソビエトへ移ることを要求する」決議を行い、他の諸連隊に使者を送り決議を求めた。

しかし、レーニン、ボルシェビキは反政府の宣伝・扇動を強めながら首都における勢力を拡大していったが直接行動を抑制する方針をとっていた。首都での武装決起によって、前線での攻勢敗北の責任を転嫁される事と、パリ・コミューンのように首都が孤立し、包囲・殲滅される事を恐れていた。時期を得ない決起を抑えるためにアジテーターが部隊や企業に派遣される事が多くなっていた。あるボルシェビキはぼやく「消防ホースにならなければならないんだ」。しかし、大衆の街頭デモへの呼びかけは1日も止まなかった。

北島くにひこが特別出演!前進チャンネル第8回「豊洲移転反対! 小池倒せ」前進2855号(6/26付)

日刊レーニン54号(6月22日)

100年前の本日のレーニン。レーニンは「エスエルとメンシェビキは革命をどこへ導いたか?」を『プラウダ』に掲載した。「彼らは、革命を、帝国主義の従属へ導いた」「大衆は自分自身の経験で学びとるであろう」と、レーニンは18日のデモ総括を行い、ロシア軍の進撃に対して徹底的に批判を繰り返した。

 この間のレーニンは、18日のデモの結果についてボルシェビキ中央委員会の私的会議において総括し、『プラウダ』で宣伝するとともに、ボルシェビキ前線および後方軍事組織の全ロシア会議に出席して、現在の情勢についての報告と農業問題を議論した。レーニンは兵士の獲得に力を傾注する。