日刊レーニン51号(6月12日)

100 年前の本日。 12 日、ソビエト大会はボルシェビキへの非難、デモ規制などダン提案を採決した。さらにダンら社会協調派たちは、労働者・兵士へ不満のはけ口を与え、彼らのエネルギーを自らの路線のもとに再組織しようと考えた。そこで「無併合・無賠償・民族自決の全面講和」「憲法制定議会のできるだけ速やかな招集」「労・農・軍の革命運動の統一維持」など中間主義的であいまないスローガンを掲げ、 18 日にペトログラートや大都市での非武装デモをおこなうことを決定した。ソビエト大会は満場一致でこの提案を採択した。

日刊レーニン50号(6月11日)

100年前の本日。11日午後5時、ソビエト大会議長団、ペトログラート・ソビエト執行委員会、ソビエト大会各派事務局など約100人、全党派の指導者が集まって合同会議を開いた。 まず、メンシェビキのダンがボルシェビキの6・10デモ計画を「政治的冒険」と弾劾した。ツェレテーリはさらに右から批判する。「起きたことは陰謀以外の何ものでもない。政府転覆と…ボルシェビキによる権力奪取の陰謀である。…反革命は唯一の戸口、ボルシェビキを通ってのみ我々のところに進入できる。…武器を自己の手に正しく持てない革命家からは、武器を取り上げなければならない。ボルシェビキを武装解除しなくてはならない」

ツェレテーリは君主主義反革命分子の陰謀を口実にしてデモを中止に追い込んだが、2月革命以後は労働者、兵士の武装によって明確に維持されてきた。「ボルシェビキの武装解除」とは労働者と兵士の武装解除を意味していた。大会代表者たちは社会主義者としてこれに納得しかねた。ボルシェビキ代表団は抗議・退場した。トロツキーはボルシェビキの立場を擁護し、デモ計画を全面的に支持して、社会協調派の連立路線を厳しく攻撃した。メンシェビキ国際派のマルトフもツェレテーリの反革命を鋭く批判した。

レーニンは11日のボルシェビキ・ペトログラート委員会で「このとりやめは無条件に必要であった」と総括し、ツェレテーリの反革命性を弾劾し、平和的なデモさえ許されない情勢では「最大限の冷静、慎重、忍耐、組織性」が必要であり、「ブルジョア反革命に襲撃の口実を与えてはならない」と自重を促した。大衆は10日のデモ中止のボルシェビキの決定に従ったが、決して抗議や怒りなしに従ったわけではなかった。各地区のもっとも怒った労働者たちは、党員証を破り捨てた。

結局、社会協調派が労働者の武装解除を断念せねばならなかった。ソビエト代表団は思い知ったことは大衆の中でのボリシェビキが優位だった。しかし、この事は全人民的に明らかになっていなかった。隠然としたものが、公然となる一点が近づいていた。

日刊レーニン49号(6月10日)

100年前の本日のレーニン。レーニンは6月10日午前2時にボルシェビキ中央委員会を開いた。ボルシェビキが追求したのは平和的なデモであり蜂起ではなかった。しかし、ソビエト大会のデモ禁止の決議に従わざるをえなかった。レーニンとスヴェルドローフは棄権し、スターリン、ジノーヴィエフ、カーネネフ、ノギーンが賛成してデモ中止を決定した。 ボルシェビキは臨時政府とメンシェビキ、エスエルに敗北したのだろうか?

 ソビエト議長団は500人のソビエト大会代議員を派遣してデモ中止の決定を兵営・工場に伝え回り、兵士と労働者を説得した。

 500人の慰留班は不眠の夜のあと完全に意気消沈してタヴリーダ宮殿に戻ってきた。彼らは大会の権威は絶対であると信じていたが、不信と敵意の壁にぶつかった。「大衆の中ではボルシェビキが圧倒的に優位である」「メンシェビキやエスエルに対する態度は敵対的である」「『プラウダ』しか信じない」ここかしこで「われわれはお前さんたちの同志ではない」と叫ばれた。代議員たちはデモ中止を勝ち取ったにもかかわらず重大な敗北を喫した事を次々に報告した。

前進チャンネル第2回「共謀罪弾圧粉砕を」前進2849号 (6/5付) アップしました!!


中核派の新聞「前進」2849号「共謀罪弾圧粉砕を」の紹介です。

「渋谷暴動の偉大な地平」。11・14渋谷暴動闘争は、永久基地化に反対する沖縄全島ゼネストに、本土・東京で学生・労働者が連帯して立ち上がった偉大な闘いでした。その先頭で闘ったのが星野同志・大坂同志です。(動画より)

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