日刊レーニン70号(8月11日)

    100 年前の本日。ケレンスキーはコルニーロフから突きつけられたコルニーロフ綱領を原則として採用せざるを得なかった。コルニーロフ綱領とは、後方への死刑の復活、コミサール権限の制限、「有害な」軍隊委員の裁判、前線での兵士集会の禁止、軍隊内での新聞発行の制限、すべての「有害分子」の予備部隊からの追放、革命的部隊の解体、工場と鉄道の軍隊化、ペトログラート軍管区と首都守備軍の大本営への従属などだった。カデット閣僚も辞任の脅しでケレンスキーにコルニーロフ綱領の採択を迫った。さらに、ケレンスキーは憲法制定会議の選挙日を 11 月 12 日、招集日を同月 28 日に定め、明日から開催されるモスクワでの国家会議の構成を決定した。    他方、コルニーロフはこの間、8月 12 日のモスクワ国家会議開催までに首都を包囲しようと、部隊の移動を策動していた。カフカース「獰猛」師団、カフカース・カザーク第 5師団など騎兵第3軍団に首都への移動を命令したほか、突撃隊、ゲオルギー歩兵旅団、「決死隊」などを動員・組織し、クーデター部隊となることを期待していた。

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