日刊レーニン78号(8月29日)

    100 年前の本日。労兵ソビエト執行委員会はクロンシュタットに首都への派遣を要請した。クロンシュタット・ソビエトはこれに応じて直ちに3千人の部隊を送る。朝には、クロンシュタットの部隊が到着し始める。 首都からきた労働者の集団がコルニーロフ派部隊の兵士と接触した。接触から、交流、相互浸透が始まる。リガ救援のためとか、首都のボルシェビキの殺戮行為を止めるためと聞いて動員されていた兵士たちは労働者に説得され動揺した。集会も始まった。「われわれは騙されたのだ」という声が大きくなる。政府とソビエトを支持する師団が次々と現れていった。

日刊レーニン第77号(8月28日)

    100 年前の本日。労兵ソビエトと農民ソビエトの両執行委員会合同会議が開かれ、コルニーロフとの闘争において「政府を最も精力的に支持することを約束する」ことを決議した。この決議を実行するために会議は「対反革命人民闘争委員会」をつくった(メンシェビキ、エスエル、ボルシェビキ各3人)。闘争委員会は、両執行委員会、労働組合中央、ペトログラート・ソビエトからの3政党の特別代表で構成された。モスクワなど他都市のソビエトも同様の機関をつくって反コロニーロフ闘争を開始した。 ボルシェビキは対反革命闘争委員会のなかで少数を占めていたにすぎなかったが、圧倒的な影響力を発揮した。首都の戦闘的革命的労働者を組織し、軍隊工作を担い、闘争委員会を活性化させたのだ。この委員会は間もなく「革命防衛委員会」と改称される。

    ケレンスキーは最大の動揺していた。コルニーロフに反対する側の力量についての最大の疑念。閣僚は辞任し、顧問、友人たちも次々に冬宮を去っていた。

    しかし、すべてはケレンスキー抜きで動き出していた。

ボルシェビキの圧力のもと、7月闘争後解体されていたペトログラート赤衛隊を復活させ、労働者を武装することが決定された。各地区には、赤衛隊に加わりたいという人々の長蛇の列ができた。対反革命闘争委員会は、食料配布など首都の行政にも関与した。

ペテルゴーフ地区ではプチーロフのマンモス工場が抵抗の拠点になった。急遽、戦闘中隊が編成される。工場は昼も夜も操業された。プロレタリアートの砲兵師団を編成するために新しい大砲が組み立てが行われた。

鉄道労働組合であるヴィクジェーリは、コルニーロフ軍のペトログラートへの進軍を阻止するために線路をはずしたり、障害物を築いたり、サボタージュに打って出た。郵便・電信局の職員は大本営からの電報や命令をおさえ、あるいはそのコピーを委員会に届け始めた。金属工組合は、自分たちの組合の事務員を防衛委員会に提供し、多額の資金を委員会に提供した。運転士組合は、郵送・技術手段を委員会に提供した。印刷工組合は、住民に事態を周知させるために、月曜の新聞発行を数時間で手配し、報道機関に関する統制を実施した。

今や、コルニーロフの反乱は労働者・兵士にボルシェビキへの誹謗中傷の意味を完全に理解させた。それはクーデターの準備に必要な要素だったのである。目が見えるようになった労働者や兵士は、激しい恥辱の念にとらわられた。ボルシェビキに対する罪悪感をともなったその気分から、党に対するゆるぎない献身とその指導者にたいする信頼が生まれていった。

防衛委員会の仕事は、目覚めさせたり、訴えたりするより、むしろ登録したり派遣したりすることが仕事になった。委員会の計画はつねに超過遂行された。

    さらに昼、巡洋艦「アヴローラ」の水兵たちは、非番の時間にクレストゥーィの監獄へ向かった。監獄に捕まっていたトロツキーを訪ねたのだ。「そろそろ政府を逮捕する時期ではないだろうか?」―面会者は訪ねた。トロツキーは答えた。「いや、まだその時期ではない。ケレンスキーの肩にライフルをすえて、コルニーロフを撃つのだ。そのあとでケレンスキーを始末しよう」