日刊レーニン56号(6月29日)

100年前の本日のレーニン。レーニンは、全ロシア・ソビエト第1回会議(6月3~24日)の激闘を闘い抜いて体調を崩した。レーニンはフィンランドの別荘に移って休養をとる。レーニンはいつもそうだ。党大会や重要な会議の後は、張り詰めた精神と緊張が切れて、疲労困憊するのだ。しかし、伏せっているレーニンを尻目に抑えきれない大衆の怒りが7月大武装デモに向かって進んでいく 。

北島くにひこが2度目の特別出演!前進チャンネル第9回「安倍を監獄へ 小池倒せ!」前進2856号(6/29付)

日刊レーニン55号(6月27日)

100年前の本日のレーニン。本日のレーニンは、『プラウダ』に「階級的変動」「革命的エネルギーの奇跡」を掲載した。

18日とデモと夏期攻勢後、首都の情勢は再び緊迫し、労働者・兵士は武装して街頭へ出ようという機運を高めていた。 

18日の反動として、ペレヴェゼフ法相は19日にアナーキストの拠点であったドルノヴォー別邸を急襲し、アナーキストの指導者を射殺、全員を逮捕した。20日には、ケレンスキー陸海相は機関銃第一連隊の機関銃500挺と部隊を前線へ送れと命令した。機関銃第一連隊はボルシェビキの軍事組織の拠点であり、その目的は連隊の解体である事は明白だった。

21日、連隊は会合を開き、「『革命的な戦争』のためのみ前線へ行くであろう」と決議。また同時に「全権力が労兵ソビエトへ移ることを要求する」決議を行い、他の諸連隊に使者を送り決議を求めた。

しかし、レーニン、ボルシェビキは反政府の宣伝・扇動を強めながら首都における勢力を拡大していったが直接行動を抑制する方針をとっていた。首都での武装決起によって、前線での攻勢敗北の責任を転嫁される事と、パリ・コミューンのように首都が孤立し、包囲・殲滅される事を恐れていた。時期を得ない決起を抑えるためにアジテーターが部隊や企業に派遣される事が多くなっていた。あるボルシェビキはぼやく「消防ホースにならなければならないんだ」。しかし、大衆の街頭デモへの呼びかけは1日も止まなかった。

北島くにひこが特別出演!前進チャンネル第8回「豊洲移転反対! 小池倒せ」前進2855号(6/26付)

日刊レーニン54号(6月22日)

100年前の本日のレーニン。レーニンは「エスエルとメンシェビキは革命をどこへ導いたか?」を『プラウダ』に掲載した。「彼らは、革命を、帝国主義の従属へ導いた」「大衆は自分自身の経験で学びとるであろう」と、レーニンは18日のデモ総括を行い、ロシア軍の進撃に対して徹底的に批判を繰り返した。

 この間のレーニンは、18日のデモの結果についてボルシェビキ中央委員会の私的会議において総括し、『プラウダ』で宣伝するとともに、ボルシェビキ前線および後方軍事組織の全ロシア会議に出席して、現在の情勢についての報告と農業問題を議論した。レーニンは兵士の獲得に力を傾注する。

前進チャンネル第7回「共謀罪絶対許さない」前進2854号(6/22付)

日刊レーニン53号(6月18日)

100 年前の本日。 40 万人の人間がマルス広場をめざすデモに出た。そのソビエトのデモには、連立をくんでいたブルジョアジーばかりでなく、それまで重要な位置を占めていた急進インテリゲンツィアも欠席した。参加したのはほとんど労働者と兵士だけであった。  マルス広場に結集した大会代議員たちは、プラカードを読み、数えた。最初のボルシェビキのスローガンは冗談半分で迎えられた。しかし、同じスローガンがつぎからつぎへと繰り返された。「 10 人の資本家大臣はやめろ」「進撃反対」「全権力をソビエトへ」。顔の皮肉な笑みはこわばり、やがて徐々に消えていった。ボルシェビキの旗はとぎれることなく続いた。ボルシェビキのスローガンを掲げて行進したエスエル、メンシェビキ党員、支持者も少なくなかった。

18 日のデモは参加者自身にきわめて強い印象を残した。大衆は、ボルシェビキが有力になったことを知り、動揺していた人々もボルシェビキを支持するようになった。いまや力関係が完全に変わった。

同日、前線では「進撃」が開始された…。

写真左上:「血塗られたニコイライをペトロパヴロフスク要塞に送れ」

右上:ウエイターたちの声「ウエイターを人間扱いせよ」「チップ廃止」「全従業員に8時間労働万歳」

中央:「十人の資本家大臣追放」

左下:ペトログラート軍需工場の労働者。ボルシェビキとアナーキストを支持してデモ

右下:「商品の生産と分配を労働者の手に」「労働者・兵士・農民代表ソビエトへ権力を」「資本家大臣打倒!」