日刊レーニン54号(6月22日)

100年前の本日のレーニン。レーニンは「エスエルとメンシェビキは革命をどこへ導いたか?」を『プラウダ』に掲載した。「彼らは、革命を、帝国主義の従属へ導いた」「大衆は自分自身の経験で学びとるであろう」と、レーニンは18日のデモ総括を行い、ロシア軍の進撃に対して徹底的に批判を繰り返した。

 この間のレーニンは、18日のデモの結果についてボルシェビキ中央委員会の私的会議において総括し、『プラウダ』で宣伝するとともに、ボルシェビキ前線および後方軍事組織の全ロシア会議に出席して、現在の情勢についての報告と農業問題を議論した。レーニンは兵士の獲得に力を傾注する。

前進チャンネル第7回「共謀罪絶対許さない」前進2854号(6/22付)

日刊レーニン53号(6月18日)

100 年前の本日。 40 万人の人間がマルス広場をめざすデモに出た。そのソビエトのデモには、連立をくんでいたブルジョアジーばかりでなく、それまで重要な位置を占めていた急進インテリゲンツィアも欠席した。参加したのはほとんど労働者と兵士だけであった。  マルス広場に結集した大会代議員たちは、プラカードを読み、数えた。最初のボルシェビキのスローガンは冗談半分で迎えられた。しかし、同じスローガンがつぎからつぎへと繰り返された。「 10 人の資本家大臣はやめろ」「進撃反対」「全権力をソビエトへ」。顔の皮肉な笑みはこわばり、やがて徐々に消えていった。ボルシェビキの旗はとぎれることなく続いた。ボルシェビキのスローガンを掲げて行進したエスエル、メンシェビキ党員、支持者も少なくなかった。

18 日のデモは参加者自身にきわめて強い印象を残した。大衆は、ボルシェビキが有力になったことを知り、動揺していた人々もボルシェビキを支持するようになった。いまや力関係が完全に変わった。

同日、前線では「進撃」が開始された…。

写真左上:「血塗られたニコイライをペトロパヴロフスク要塞に送れ」

右上:ウエイターたちの声「ウエイターを人間扱いせよ」「チップ廃止」「全従業員に8時間労働万歳」

中央:「十人の資本家大臣追放」

左下:ペトログラート軍需工場の労働者。ボルシェビキとアナーキストを支持してデモ

右下:「商品の生産と分配を労働者の手に」「労働者・兵士・農民代表ソビエトへ権力を」「資本家大臣打倒!」

日刊レーニン52号(6月16日)

100年前の本日。ケレンスキーは陸軍と艦隊に命令を下した。「数々の勝利につつまれた指導者」である最高司令官を引き合いに出して、「即時、断固たる一撃」をと発し、「諸君に命令する-前進!」と言う言葉で結んだ。しかし、18日の夏期進撃の前に、兵士の政治的活性化と軍的解体は進んでいた。前線でのドイツ軍との交歓も始まっていた。5月全体を通してあらゆる指揮官の報告は「進撃に対する態度は全体的に否定的である」であった。政府は、不服従な兵士と将校に対して軍隊の解体と裁判に打って出たが、戦う事を拒否した兵士は、解体も裁判も恐れなかった。6月、指揮官はだれよりも勇敢に進撃反対の声を上げる兵士を「レーニン派」と称していた。そうした「レーニン派」の兵士には、レーニンがドイツ皇帝・ヴィルヘルムに送り込まれていると真面目に信じている者も多かった。懲罰で威嚇する将校に対して、ある兵士は言った。「前の政府を倒したのだ。ケレンスキーもやっつけるさ」。


写真:戦争の前線で交歓するロシア軍とドイツ軍(1917年12月)。