日刊レーニン85号(9月21日)

100 年前の本日。民主主義会議は拡大議長団会議の決定を賛成多数で承認した。そして、新たな代表機関を「予備会議」と命名し、そこに民主主義会議の全権限を移した。民主主義会議の各グループにその構成員 15 %、全部で 350 議席を与え、有産階級に120 議席を与えた。さらに政府がカザークに 20 議席を与えた。予備会議は8月半ばにモスクワで開かれた国家会議の焼き直しにすぎなかった。
ボルシェビキの中で直ちに、予備会議に参加すべきか否かをめぐって激しい論争が展開された。本日の中央委員会では、予備議会のボイコット案をめぐって賛成9、反対8の半々に割れたため、最終決定を中央委員会、ペトログラート委員会、民主主義会議代表団からなる党協議会に持ち越された。

日刊レーニン84号(9月20日)

100 年前の本日。民主主義会議は、拡大議長団会議を開き、民主主義会議から代表機関を選び―しかも有産階級を加えてー、この代表機関が政府樹立問題を扱うことを決定した。 民主主義会議とは、社会協調派指導部が労兵ソビエト中央執行委員会、全国農民ソビエト執行委員会の合同会議で作った会議だった。
民主主義会議には全国からあるゆる種類の「民主」団体、すなわちゼムストヴォ(地方自治体議会)労兵農ソビエト、軍隊、土地委員会、県執行委員会、民族団体、鉄道員などの代表、計 1755人が集められた。エスエル、メンシェビキが多数を占めた。この民主主義会議は 14 日から開かれていた。この民主主義会議が、なんとしてもソビエト権力樹立を阻止するために、ブルジョアジーの権力を樹立しようとしていたのだ。
またこの日、ボルシェビキの中央委員会は会合を開いたが、もはやレーニンの手紙は問題になり得なかった。
実はその時、レーニンはすでにフィンランドからヴィボルグ地区に隠れ家を移していた。レーニンは、武装蜂起の準備を指示した手紙がないがしろにされた事を知った。「これだけは許せない」と中央委員会に従わないことを決めた。レーニンは、4月テーゼの時のようにまたもや党の再武装に取り掛かろうとしていた。