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全学連第64回定期全国大会 労働者階級との連帯・戦後革命期の労働運動分科会報告
2004年10月6日

全学連第64回定期全国大会 労働者階級との連帯・戦後革命期の労働運動分科会報告

2004年9月17〜19日
富山大学学生自治会

もくじ
 【0】はじめに
 【1】戦後革命期という規定
 【2】1945年8・15〜46年4月危機
 【3】47年2・1ゼネストの高揚と挫折
 【4】48年政令201号、49年「百万人の首切り」との闘い

【0】はじめに

【1】戦後革命期という規定
◎戦後革命期という規定
▼「まず戦後革命期、1945年の敗戦から1950年の総評結成までですが、これは日本の歴史の中でも唯一革命的な情勢といえる時期ではないかと思います。ここで僕は、『戦後革命期』といったわけだけれど、こういう規定のしかたじたいが党派的なんですね。日本共産党は、絶対にそういうふうにはいわない。やはり60年安保闘争前後に、新左翼が登場して以来、この時期が戦後革命期だったんだ、その戦後革命期に敗北して、今日の情勢もあるんだという認識が確立していったんですね。従って労働運動の歴史区分の中でも、この時代は非常に多くの問題をはらんでいると思います。僕は、端緒的にいうと、前衛党と労働運動の関係で非常に多くの教訓があるのではないかと思います。」(中野洋『戦後労働運動の軌跡と国鉄闘争』)

◎日共スターリン主義による戦後革命の抹殺
▼「…日本帝国主義の軍事的敗北から二昔以上もたった今日にいたるも、戦後史の評価は、既成左翼の中でいまもなお、混乱のままだといってもよい。市民主義者たちはさておき、マルクス主義を自己の旗印に公然とかかげるものにおいても、45年から50年を革命と反革命の激突の時代として49年を戦後革命の敗北として根底からとらえかえすことをいまだに拒否したままでいるのである。」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

【2】1945年8・15〜46年4月危機
(1)日本帝国主義の軍事的敗北
*戦中期の労働運動
 「労働組合は戦時中、徹底的に破壊され、太平洋戦争の始まる2年前の1939年、まだ517組合、36万6000名が組織されていたが、1941年には、11組合に減り、さらに44年には、完全にゼロと化していた。」
 「41年から44年にかけてストライキ件数1304件5万3443名、45年に入ると7月までに13件、382名に達していた。」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

 「日本が15年戦争の火ぶたを切ったころから、弾圧は凶暴化し、共産党員は一人残らず逮捕されただけでなく、社会民主主義政党も解散させられ、わずかばかりの労働組合も壊滅に追い込まれていた。そのために、戦争中には労働者が組織的に結集することができず、次第に広がり始めた反戦、反軍国主義的な抵抗を組織することもできなかったし、自分の手で戦争を終わらせ ることができなかったのである。そして呆然として8月15日をむかえるしまつであった。」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

■日本帝国主義の敗戦と延命へのあがき

▲1945年8月、一面廃墟と化した大阪市。

・8/14の軍需品の放出命令による、国家財産および臨時軍事費の横領と、日銀の無制限の貸し出し。→大インフレーション
 日銀券発行高 295億(7月)→423億(8月末)→570億(年末)

 「国家財産の横領は、第一に、日本軍国主義の復活に備えて、軍隊を地下に温存するための資金作りのためであった。第二に、敗戦によって植民地収奪の手段を失い、かつ軍需生産というぼろもうけの手段を失った独占資本の立ち直りの物質的条件をつくるためであった。第三に、その意識的なインフレーションは、敗戦による損失を、国民全体に背負わせるためであった。インフレーションは大衆収奪の最良の手段であった。」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

・資本の生産ストップ→インフレーション
         →大量解雇

・大量解雇
 「厚生省の推定によれば、徴用工の大量解雇をふくめて、工場の廃休による失業者は488万、復員兵士は761万、在外邦人の引き上げ150万、合計1399万という尨大な失業者群を、わずか3ヵ月のあいだにつくりあげた。」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

▲45年10月18日、博多港に到着した朝鮮からの引き揚げ船

・飢餓政策
 「45年11月から46年6月までは京浜地区の餓死は1300名にも達し、46年5月には毎日平均9人が餓死している・・・」(『朝日新聞』46年6月14日)

 「これらの政策は、労働者・農民を中心とする民主主義勢力の組織的結集を阻止するための手段であった。食糧を求めて東奔西走し続けていたら、団結して闘うということは二の次となることはわかりきったことだが、それよりも意識的に社会的混乱をつくりだして、治安維持を口実に警察力を中核とする絶対主義的天皇制の支柱の一つである旧官僚機構をそっくりそのまま残そうとするねらいがかくされていたことの方が、重要である。支配階級にとっては、再起の基礎をつくることと民主主義諸勢力の結集を阻止することは、完全にひとつの仕事であったのである。降伏の日からマッカーサーが日本占領するまでの二週間のあいだに、日本の支配階級は、政治的危機に立ちながら、再起の準備と革命絞殺の基礎的な作業を見事にやり終わっていた。」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

・米帝による軍事占領の開始
 「アメリカは(日本の支配階級が)ポツダム宣言の忠実な履行者でないことを見抜いていた。日本の支配層は占領軍が上陸してからも、旧支配機構を残そうとして抵抗したが、一つは「民主化」指令のため、一つは嵐のような日本の民主主義勢力の組織的結集のために、その支配体制は音を立てて崩れていった。」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

・敗戦による一切の権威の没落。軍隊の崩壊。占領軍によってかろうじて支えられる。
 「天皇制ボナパルティズムの一つの支柱であった軍隊は、敗戦後一週間を経ずに膨大な物資とともに蒸発してしまった。軍隊の自己崩壊は、同時に、天皇制イデオロギーの自己崩壊であるとともに、日本資本制国家権力機構の崩壊の象徴であった。すなわち、無政府状態が生まれたのである。」(革共同労対部『戦後革命の敗北』)

(2)朝鮮人労働者、中国人捕虜の決起
・9/1北海道 赤平茂尻炭鉱−朝鮮人労働者1,100
・       三菱美唄炭鉱−中国人捕虜
・       三井美唄炭鉱−朝鮮人、中国人労働者
・10/7北海道 夕張・常盤両炭鉱−朝鮮人労働者スト
・    九州 三池炭鉱−中国人捕虜
・    栃木 足尾銅山−中国人捕虜

・「日本におけるその爆発の突破口を開いたのは、10月7日の北海道夕張炭鉱における朝鮮人労働者の闘いの爆発であり、それを契機に、労働者の運動はせきを切ったように怒濤の進撃を開始していった。」
・「それは、民衆にとっては、革命の始まりなのであって、棒を持ってデモするような闘いはたちまち日本の労働者の心をとらえるものだった。」
 「・・・この闘いによってのみ、労働組合の組織化の端緒についたことは、夕張や足尾の労働組合史も記しているところである。」
 「朝鮮人の闘争は、日本人労働者をふるいたたせたのである。」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

(3)2ヵ月の混迷と共産党員の出獄
・45年10月10日 徳田球一、志賀義雄ら出獄 「人民に訴う」
    12月    第4回党大会
・労働組合、農民組合の結成が怒濤の如く拡大
 cf.『アカハタ』の拡大
   第1号=1万部 第2号=1万3000部 第3号=3万部 第4号=3万部 第5号=9万部
 →共産党の影響力の拡大、それ故に共産党の誤れる戦略によって抜け道のない迷路に(革共同労対部『戦後革命の敗北』)

・「労働者人民の闘争は、8・15を契機に一挙的に堰を切ったように流れ出そうとはしなかった。・・・敗戦の報がただちに闘争の爆発に転化するには、主体的条件があまりにも貧困そのものだった。」
cf.荒畑寒村「これからどうしたらいいか・・気の抜けたような感じの幾日かを過ごした。」
・「一方における虐殺と他方における転向の続出」
 「獄外にいた社会主義者たちは、・・・8月15日からの2ヶ月間を無為無策に過ごしていた」
 「右翼社会民主主義者たちは、・・・独占資本の認可を受けた労働組合の結成に走ろうとさえした。」
・「したがって、・・・状況を一挙的に打ち破るためには、朝鮮人の闘争が序曲となり始めながらも、獄中党員たちの出獄を待たねばならなかったと言えるだろう。」
・「共産党員の釈放は、日本帝国主義の弾圧にも屈せず闘い抜いた戦士の出獄として人民大衆を限りなく激励し、敗戦直後2ヶ月間にわたる革命運動の混迷を一挙に打ち破った」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)
 「10月10日、労働者は歓呼して共産党員の出獄をむかえた。かれらは出 獄と同時に、日本共産党の再建にとりかかり、「人民に訴う」というアピールを発表し、労働者の組織的結集と資本家の生産サボに対抗して生産管理戦術をよびかけた。政治犯の釈放および占領軍の民主化指令は、長い間弾圧され、窒息していた労働者をふくめた民主主義勢力に対して、かつて経験したことのない有利な条件をつくりだした。占領軍及び日本政府が、民主主義諸勢力の結集を阻止するためとった意識的な経済混乱と食糧不足は、逆に民主主義勢力の結集と発展をうながす結果さえ生んだ。」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

(4)占領下の革命運動
・「社会民主主義者・・・松岡駒吉などの戦前の総同盟の指導者たちは、いますぐ労働組合をこしらえると『あたかもわれわれが戦争に負けるのを待っていた恐れがある』といって洞が峠をきめこんでいた」
 「労農派マルクス主義者たちは、ただ事態の推移に流されているだけ」「社会党結党大会の準備にあたって、宮城遙拝と君が代の斉唱から始めようとする意見」「賀川豊彦が『天皇陛下バンザイ』の音頭」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)
 「社会党は・・・革命を論じながら、アメリカ軍による軍事占領の本質を理解しようとせず、そのうえ権力の問題にはふれようとしなかった。」「社会党には主権在民の思想さえなかったのである。」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

・「共産党は、・・・釈放と同時に、『人民に訴う』を発表してアメリカ占領軍を解放軍と賛美」「アメリカ占領軍とその対日政策には逆らわないという誓約書にも等しい」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)
 「アメリカ占領軍は、こともあろうに、日本の前衛党から解放軍と呼ばれたのだが、日本の人民は毎日、解放軍規定と逆のことを経験していた」「共産党は、天皇制についても、全く間違った見解を持っていた」「共産党は・・・混乱をとおりこしていると言わざるを得ない」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)
*『人民に訴う』において
 「ファシズムおよび軍国主義からの世界解放のための連合国軍隊の日本進駐によって、日本における民主主義的変革の端緒が開かれたことに対して、われわれは深甚の感謝の意を表する」
 →占領下における平和革命論
 「このように、プロレタリアートの『革命的暴力』を去勢し、アメリカ帝国主義の軍事占領を歓迎した日共の方針こそが、戦後革命を敗北に導いた一切の根源」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

(5)労働組合の組織化
■労働組合の組織化
・「戦後日本の労働組合運動は、まず第1に、朝鮮人労働者のストライキに触発された、最も劣悪な労働条件の下で苦しめられてきた炭鉱などの地下産業労働者の闘争・・、第2に旧全国評議会などの生き残りである合法左翼の組合組織化、第3に、松岡駒吉などの旧総同盟の右翼幹部の手による組合結成の動きとなってあらわれた」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)
 「戦後日本の労働運動は、在日朝鮮人・中国人捕虜の蜂起から始まりました。 ・・・これをキッカケに日本人の炭鉱労働者が労働組合を作り、それに影響されて他の産業の労働者も組合を結成し賃上げなどを要求して立ちあがりました」(斎藤弘平『労働運動史』)

■炭鉱労働者の組合数(45年12月)
・全国 99組合、14万1816名、組織率35,4%
・北海道40組合、 6万6135名、組織率74,7%

*全産業の組合数509組合、38万677名、組織率3,2%

・「明らかに、戦後日本労働組合運動は、炭鉱労働者の手によって、その爆発的展開の突破口を築き上げることになる。そしてこのような闘いの息吹のなかで形成された炭鉱労働運動が、1960年の三池争議の敗北まで、日本労働運動の主軸たりえていったのは、敗戦直後の爆発をつうじてのみ可能だったのである」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)
 「アメリカ軍が日本を占領してから10日目に、炭鉱労働者がつぎつぎと闘争になだれこんでいった。すなわち、9月11日、北海道上歌志内の炭鉱労働者が、賃上げと食糧増配を要求してストライキに入り、10月には夕張炭鉱、豊里、新歌志内、奔別、弥生、赤平、雄別などの労働者が労働組合をつくりながら闘争に入っていった」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

■北海道が闘争の中心
 「このような北海道に烽火が上がった労働運動の爆発が、全土を席巻する客体的条件はみちみちていた」
 「北海道における労働者の蜂起は、文字通り、労働者階級決起の合図であった」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)
 「炭鉱労働者の組織化がいかに急速にすすみ、北海道の闘争がその中心であったかが・・・」(斎藤弘平『労働運動史』)

*旧総同盟の右翼社民の動き 伊藤卯四郎らによる「九州地方鉱山労働組合」の結成
              全日本海員組合の結成(戦後最初の全国的産業別組織)
*旧全国評議会など左翼社民の動き 高野実ら、しかし合法主義、中間主義

■組織化の前進
 「共産党員の釈放と同時に、堰を切ったように労働者の組織化は進み、一切の社会民主主義の思惑を乗り越えて労働者は前進し始めていったのである」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

▼京浜地帯金属労働者の闘い
 東京蒲田の石井鉄工所、東京城南地区の日本電気、沖電気、日本起重機、日本車輌(埼玉)、池貝自動車(神奈川)へと拡大

・「私は、勤めを放り出した。そして、東西南北、職場という職場をかけめぐり始めた。一台の謄写版が、よくも、こんなに回るものだと思われたほどだ。私らは、ビラを持って、就業時間の中の工場へ、やおら、ちゅうにする。そこで、職人にわたりをつけて、演説をはじめる。さっそく要求書をつくってやる。団体交渉に立ち会う。数日にして何々従業員組合が旗揚げされるのである。」
 「どんな日とて、組合の結成式の二つや三つ、ない日はなかった。」
 (高野実『日本の労働運動』)

・「共産党員たちが工場の入り口でビラを撒き、組合の結成を呼び掛けて、内部から1人でも呼応してくるものがあれば、たちまちにして組合が組織され、要求が提出されて闘争に突入していったのだった。・・・動揺し続ける資本家階級は次々と労働者に譲歩し、共産党の合法化は怒濤のような組合結成と闘争の爆発の連鎖反応を生み、そのなかで共産党の大衆的基礎は急速に拡大し、青年労働者は共産党の周囲に集まっていった」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

▼労働組合への結集
 45年10月      8組合、   4026名
 46年 1月 1万0008組合、52万2074名

・「労働者は要求を出すために組合をつくり組織すると同時に闘争に入った」(革共同労対部『戦後革命の敗北』)
 「労働者は生きるために、闘争に立ちあがらざるを得なかった。労働者は闘争するために組合をつくり、組合をつくるために闘争した。わずかのあいだに、労働組合の組織が全国的に広がり、拡大した」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

(6)生産管理闘争
・「45年10月、読売新聞の業務権利闘争を契機に、生産管理戦術は当時の労働組合の主要な闘争戦術となって発展していった。そして、生産管理の拡大は、支配階級を異常な恐怖に叩き込むと同時に、プロレタリア革命の主体的条件をも一挙にきり開きつつあるものだった。」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

→「なぜ、労働者は、ストライキではなく生産管理で闘ったのでしょうか。敗戦のドサクサに紛れて、政府は独占資本が軍需生産を中止したことに対する損失補償として百数十億円の金をばらまきました。また、あらゆる物資が欠乏し、ものすごいインフレーションで物価がうなぎのぼりで高騰しました。(年間物価上昇率約6倍)したがって経営者は生産をサボって、ストックした物資の値上がりを待っていたのです。こんな状態でストライキをやっても効果はありません。そこで労働組合はその資材を使って自主的に生産する生産管理戦術を背景にして会社に要求を突きつけたのです。」(斉藤弘平『労働運動史〜甦れ!左翼労働運動〜』)

@読売新聞の業務管理闘争の勝利(45年10月から12月)

▲45年10月、読売新聞労組の業務管理闘争(東京・有楽町)

▼「(正力社長に要求を提出した5名の責任者の退社勧告)この正力社長の挑戦に労働者は憤激、ただちに編集局を占拠すると同時に、鈴木を委員長とする最高闘争委員会を設置、業務管理を宣言、自主的に新聞発行を継続していった。・・・社長以下首脳陣の退陣、組合の経営参加などの条件を持って12月11日ようやく妥結するにいたる」
 「戦争責任の追及は、ひとり新聞労働者のみならず全人民的関心事であり、しかも、その要求を貫徹するに、ストライキよりむしろ業務管理の手段がとられ、労働者自身の手によって新聞が発行され、その上、闘争突入以前よりも人民的新聞がつくりだされたことは、労働者階級に自らの存在と力にたいする限りなき確信をうえつけるのに十分だった」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)
 「読売労働者はこの闘争ではじめて生産管理戦術を採用して勝利したが、読売の巨大な報道網は、全国の労働者に、この新しい闘争方式の意義を教えた」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

A京成電鉄の業務管理闘争
▼「組合結成と同時に、賃金5倍引き上げ、団体協約権の承認などの要求をかかげて闘争に入り、12月11日から3日間、無賃運転を断行、さらに14日から『平常輸送による収入管理』という業務管理闘争に移行していった」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

B読売、京成の勝利を契機とする生産管理闘争の全国的拡大
・「労働者の生産管理によるこのような労働組合運動の勝利は、読売と京成の2つの争議を契機として生産管理に全国的に燃え上がらせることになる」
 「闘争戦術として採用された生産管理闘争は生産過程からたとえ一時的にもせよ、資本家階級を追放していく闘いであり、資本家の経営権の全面的な否定であるばかりではなく,革命的激動期のもとでこのような闘いが普遍化して、権力の問題と結合していくのならば、ストライキ戦術以上に、支配階級に打撃を与えるものだったからである」。(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

・「生産管理闘争は全国的に拡大し、46年に入るとともに、その規模も拡大し、労働組合運動の主要な闘争形態になっていく。・・・46年に入ると生産管理は、部分的な業務管理から一般業務全般にわたり、経営そのものにわたる規模にまで拡大されていった」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)
 45年10月  1件   2000名
 46年 1月 13件 2万9029名
     3月 39件 2万0651名

・「初期の生産管理闘争は、工場を占拠し、労働者が生産過程を掌握しながら、資本階級をを徹底的に追いつめていくための闘争手段として位置づけられているというよりもむしろ、あくまでも生活防衛のための個別資本に対する争議手段の域を出るものではなかった。」
 「しかし、たとえ、一時的な争議手段であっても、労働者が生産を管理することによって、資本家的労務管理がマヒし、資本家がいなくても、生産の主体である労働者の手によって生産が維持しうるということが労働者の意識の中に成長していくことを資本家階級は何よりも恐れた。」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

*46年2月1日「四相声明」・・・強権発動による生産管理の弾圧を示唆。

▼日共における生産管理闘争への歪曲
・「労働争議の手段としての生産管理」という把握
・「ストライキよりも生産管理の方が日本経済の復興に役に立つ」の趣旨の声明
・「労働組合、農民委員会、市民食糧委員会の結合による人民権力」
→プロレタリア独裁の否定

(7)46年4月の政治危機
@生産管理闘争と食糧管理闘争の爆発
▼「労働組合の急速な組織化と、生産闘争の爆発は、このような破局的危機のもとに立ちあがった労働者大衆の生きるための闘争であった。そしてひしひしととせまる飢餓の恐怖は、生産闘争と並行する食糧闘争を爆発させていった。」「幣原(しではら)内閣は、食糧危機に対して物価統制令違反という買い出し取締まりによって切り抜けようとしただけだった。そのため、民衆の怒りは爆発し、労働組合が生産過程をも管理する食糧管理闘争となって発展していったのである」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)
・「46年になると米の遅配欠配は一層ひどくなり、46年5月には配給のおくれは北海道で74日、東京で20日にもおよんで、食糧危機は深刻になった。政府は、46年2月には緊急勅令として“食糧緊急措置令”を出すとともに、インフレを抑えるために緊急緊急措置令を発令して新円発行と旧円預金封鎖を行い、労働者の賃金も500円以上は銀行に封鎖するという措置をとった。 そのため労働者は「500円の枠」のなかで耐乏生活を強いられることになった。こうしたなかで“米よこせ闘争”と“隠退蔵物物資摘発闘争”が各地で組織された」(樋口篤三『日本労働運動歴史と教訓』)

・45年末 神奈川県久里浜、東京都板橋で市民食糧管理委員会の結成
 戦時中の隠匿物資の摘発、米よこせ闘争、食糧配給所の管理など
 東京・杉並区、世田谷区で大衆的な食糧闘争がまたたくまに発展
・46年2月11日 関東食糧民主協議会が労組を中心に結成

▼革命的情勢の到来
・金融緊急措置令(旧円封鎖、新円切替)と3・1物価体系
 =資本主義再建のための反革命の第一歩。
 「3・1物価体系によって、幾千万の人民の生活は破綻を通りこして、餓死線上をのたうちまわりはじめた。しかし、日本政府は人民の生活を破壊しながら、いろいろな抜け道をつくって、独占資本や地主には新円をたやすくひきだせるようにしていた。かれらは何のかんのと理屈をつけて、新円を手に入れ、それを買い占め投機に投下していった。物価騰貴はいよいよ激しくなり、インフレーションはさらに大がかりなものとなった」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)
 農民のブルジョアジーからの離反決定的に。
 労働者には500円を限度とする賃金を強制。
・生産管理闘争の発展 →・・・→ソビエト形成の現実的可能性。
・しかし、日本共産党は、プロレタリアートの要求に一顧も与えず。
 「500円の枠に対するプロレタリアートの闘争は、共産党によって考慮さえも払われずに終わった」。(革共同労対部『戦後革命の敗北』)

▼生産管理闘争の発展は、同時に原料、資材、販路、資金などの面で限界に。
・「個々の工場の管理という限界を乗り越えて、・・・全産業部門及びその全体を労働者が管理するという問題に」直面していた。(革共同労対部『戦後革命の敗北』)

▼その打開の「鍵は、国鉄、全逓等の官業労働者の手中にあった」。
・共闘委員会、飢餓突破資金1500円、賃金実収5倍化等の要求をかかげて、46年2月25日、ゼネスト突入を決定。
→占領軍のスト中止勧告によって敗退
→革命的指導部の存在の問題
・国鉄、全逓ストの敗北によって、政府は、物価統制令を発令(3/3)、賃金の最高額を500円に抑えた。
 資本家の生産意欲の増大
 金融危機の解消
 (革共同労対部『戦後革命の敗北』)

A幣原内閣による経済危機突破総合対策(2/16)、総選挙(4/10投票)

・「生管闘争に食糧管理闘争が結合し、戦後革命の波が高揚しはじめたとき、この闘いが、総選挙、秩序の回復を議会制民主主義の確立の方向にずらされるか、アメリカ占領軍との激突をも辞さない権力獲得の闘いに発展するかの重大な岐路に直面しはじめた」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)
 「占領軍は、・・・人民の闘争を総選挙におきかえようとして、・・・」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

・日本共産党・・・一切の闘争を天皇制打倒に解消
 4月総選挙の結果
 「日本共産党は、天皇制打倒のスローガンを中心的任務にかかげることによって、食糧闘争の発展をとざし、労働者階級を迷路に陥れた。日本労働者階級が、食糧危機としてあらわれたこの社会的危機に、日本共産党の二段階戦略の呪縛によって解決のない泥沼に陥り、敗北を喫した・・・」(革共同労対部『戦後革命の敗北』)

B4月の政治危機(その1)
■4・7幣原内閣打倒人民大会と首相官邸占拠闘争
▼「だが、人民大会には、7万人あまりの労働者人民が集まり、いったん労働者が示威運動を開始するやいなや、このような平和的幻想の思惑をのりこえはじめた。そして民衆は、大会が終わってから、口々に幣原内閣打倒を叫びながら首相官邸目指して進んでいったのである。・・・人民大会に結集した民衆はほとんど首相官邸に押しかけていった。つまり民衆は、平和的に政権が交替しうるなどという幻想をいだくよりも以前に、自己の力によって内閣を倒す道を選んで、立ち上がりはじめたのだ」
・「300名の警官隊は・・・デモ隊に向かってピストルを乱射・・・」
・「民衆は・・・建築中の小屋をたたき壊し、その煉瓦を投げつけた。民衆の積もりに積もった怒りはついに爆発し、権力に対する真正面からの対決を挑んでいった」「首相官邸は占拠されたに等しかった」
・「危機を直感したアメリカ占領軍は、ただちにデモ隊の干渉にのりだした」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)
・「日本の人民はこの時、占領軍は解放軍でないことをハッキリと見たのである」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

・「4月10日には、予定通り『平和』裡に第1回選挙が行われ、・・・民衆は投票箱におもむかざるをえなかった」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

▲46年4月12日、東京・下町での生産管理弾圧反対労働者大会

・「闘争は逆に拡大し、発砲事件から5日目の4月12日に生産管理弾圧反対労働者大会がひらかれた。それは明らかに反政府闘争であり、占領軍に対する最初の闘争であった。労働者の闘争は食糧闘争と結びついて攻撃に移りはじめた」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)
 「闘いは5月になるとまたふたたび爆発的高揚をつくりだし、弾圧は逆に、反政府闘争の拡大に火をつけたのであった。求められていたのは革命政党の階級的指導だけであった。だが、このことを見抜いた政党は一つもなかった」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

C4月の政治危機(その2)
■4・22幣原内閣総辞職と40日間の空白
・総選挙のねらい
 「幣原内閣のもとでの議会構成は、戦時中の翼賛選挙から続いているものであって、形式的にもなんら『国民の信任』をえていない帝国議会であり、また、幣原内閣は、明治憲法のもとで、天皇の大命降下によって成立している内閣であった。そのために、選挙という『国民の信任』を基礎に、ブルジョア民主主義の擬制のもとに内閣をつくりかえることによって、革命の爆発を防ぎ止める必要に迫られていたのである」

 「だがしかし、選挙戦の終盤にしてようやくにして爆発した労働者人民の政治闘争は、保守党の勝利という選挙の結果によっても決して左右されはしなかった」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

 4/12 生産管理弾圧反対労働者大会
 4/17 メーデー準備協議会(産別会議準備会、総同盟、関東労協、東交な ど)
 4/18 「幣原内閣打倒共同委員会」
 4/22 幣原内閣総辞職

▲46年5月1日、皇居前広場で開催された戦後初のメーデー集会

・「4月7日の数万の民衆の首相官邸突入が、MPの出動によって弾圧されたことは、労働者人民の怒りを拡大し、闘争を押さえつけることになるどころか、逆に火をつけることになっていったが、この闘争の拡大によってのみ、幣原内閣は政権を投げ出さざるをえなかったのである」
 「後継内閣が出現するまでの1ヵ月にわたる政治的空白期、つまり戦後最大の政治危機」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)
 「幣原内閣という天皇の『大命』降下による最後の内閣が『戦後革命』の激流のなかで崩壊し、総選挙が行われましたが、次の内閣ができなかったのです。ものすごいインフレと食糧難のなかで『飯を食わせろ!』という怒濤のような労働者民衆の闘いの前に、支配階級は動揺を深めて内閣をつくる力を失っていたのです」(斎藤弘平『労働運動史』)

▼5・12世田谷区下馬で1000余名の米よこせ大会
 「米よこせ大会に集まった民衆は、宮内省に押しかけ、赤旗をなびかせながら坂下門から宮城内になだれこんだのである」
・「たしかに、宮城内に民衆が突入したのは、戦前、戦後を通じてこの時だけであり、・・・。だがそれは、4・7首相官邸突入によって、権力との赤裸々な対決を迎えた労働者人民の闘争を、革命、つまり、プロレタリアート独裁の勝利に向かってアメリカ占領軍との激突をも辞さない方向に発展せしめることなく、スターリン主義の天皇制打倒、民主革命論の路線によって歪曲され た表現としての闘いであったこともまた否定しえない事実であろう」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

▼「だからこそ、5月19日、労働者・農民・失業者・主婦・学生など10万をこえる民衆が首都の食糧メーデーに集まったとき、どこに攻撃を向けるかが極めて曖昧になってしまっていたのだ」
*「朕はたらふく食っている。なんじ人民飢えて死ね」のプラカード
・「国鉄東京労組は、大会参加者の無賃乗車を指令していたが、GHQは・・・装甲車を配置して弾圧を強化・・・デモ隊が何に向かって進んで行かねばならないかはすでにハッキリしていたのである」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)
・「19日の食糧メーデーには占領軍は装甲車を出動させた。デモ隊は首相官邸になだれ込んで、吉田茂の退陣を要求した。吉田はこの夜、組閣をあきらめた」
 →マッカーサー「事態の是正に必要な措置をとるのもやむなきにいたるであろう」と恫喝
 →支配階級はマッカーサー声明を歓迎。吉田は急に立ち直り、5月22日に組閣を完了。(斎藤一郎『戦後労働運動史』)
・「革命党の欠如は、占領軍の恫喝によってようやくにして闘いの高揚を退潮にむかわせしめ、・・・」「4月危機を革命的に突破しえなかったことは、その後における戦後革命の全性格を決定していってしまうことにもなっていた」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

▼「この革命のスターリン主義的歪曲のもとに、産別の歴史は開始される。それは、第1次吉田内閣の成立によるブルジョア権力の一応の整備による資本家的再建と労働者の生活防衛の激烈なる闘争の歴史なのである」(革共同労対部『戦後革命の敗北』)

・生活管理闘争の沈滞
 46年5月 56件 3万8847名
    6月 44件 1万8056名
    7月 25件   2487名

(8)憲法制定と農地改革
@憲法制定

A農地改革
*戦後の農民運動
・45年 8月 茨城県常東での「農村民主化運動」(40〜50人を組織し村長を追放)
    12月 群馬県東村 1000余名の村民大会
 46年 1月 7000戸の農民を結集して常東農民組合を結成
     2月 日本農民組合が再建
     3月〜4月 青森、秋田、山形、茨城、栃木、山梨、長野、新潟、富山、石川、三重、岡山、福岡、大分など14県で大抗議闘争。強権発動反対。15万人が参加。 

・「まさしく、46年の4月危機は、このようなあらゆる意味からいって、戦後 革命の最大の焦点になっていたのであり、・・・GHQが日本の支配階級の思惑を乗り越えて第2次農地改革に踏みきったのも、ブルジョア的安定を一刻も早く回復させることにねらいがあったのだ」
・「自作農創設によって日本帝国主義再建のための物質的基盤を農村支配安定化のなかにみいだし、労働者と農民の分断をつくりだし、他方で、吉田内閣成立以降の労働運動の再度の高揚を強権的に弾圧し、資本主義の危機を回避するということを社会党も、共産党も見抜くことができなかった」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

【3】47年2・1ゼネストの高揚と挫折
(1)産別会議の結成
・「産別会議の結成によって4月危機の後退のなかから、ふたたび2・1ストに向かって前進する労働組合運動の中央指導部が形成されたことを意味していた」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)
 「産別会議21組合、163万の労働者が共闘に立ちあがることは、日本の組織労働者の全部を動員しうる中核部隊の出動を意味した。産別の結成大会は闘争の新しい出発点となった」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

*日共スターリン主義の指導問題
・「加盟組合の幹部は企業に在籍する者に限られましたが、これは共産党の人事政策にもとづくものでした。プロの労働運動家は知識や経験が豊かで共産党の意のままにならないため敬遠されたのです。・・・彼らの多くは、後に情勢が労働組合にとって厳しくなるにしたがって、徐々に会社側に身を寄せるようになっていきます」
・「一般組合員にとっても、共産党は戦争反対を貫いた唯一の政党(実際は中国侵略戦争の全面化に先立つ1935年に壊滅)として新鮮なものに映り大きな期待を寄せました。こうして共産党の圧倒的な影響下に、産別会議は敗戦後の数年間、労働戦線全体を大きくリードすることになります」(斎藤弘平『労働運動史』)

@総同盟(日本労働組合総同盟、46年8月1日)
・中心になっているのは全部戦前派の活動家。さらにプロパー。
 cf.高野実・・・
・総同盟はそもそも右。占領軍の政策にもとづいて、各会社に行って、社長と話をつけて組合をつくるというやり方。上からの組合作りで労資協調。
・民間中心。

A産別会議(全日本産業別労働組合会議、46年8月21日)
・活動家のほとんどが戦後派。
・官公労中心に組織化。軸は全逓。清新さ、新鮮さを持っていると同時に戦闘的だった。
・日本共産党の産別会議フラクによって指導されていた。
 産別会議の事務局は、細谷松太を先頭にして日共のフラクの支配下。
 *斎藤一郎もここに。
・役員。議長=聴濤克己(読売新聞)、土橋一吉(全逓・東京中部)
 国労東京(全体は国鉄総連合で産別には加盟せず)、電産(電力労連の前身)
 (中野洋『戦後労働運動の軌跡と国鉄闘争』)

(2)吉田内閣の労働政策
@労働関係調整法
・運輸・郵便・電信電話・水道・電気・ガスなどの事業を公共事業と指定。これらの事業における争議を調停申請後20日禁止し、その上、現業でない官公吏の争議行為を禁止するという内容。

A独占体に対する軍需補償打ち切り
・企業整理、1千万人におよぶ労働者の首切り

(3)後退から反撃へ
▼第2次読売争議
・6/13組合幹部の首切り勧告、武装警官隊500名がMPとともに新聞社に乱入、56名の労働者を逮捕。17名に転勤命令。
・組合は7/12から4日間のストライキ、新聞発行は完全にストップ。読売資本は、警官隊の援護のもとに第2組合を動員して職場を強行接収。争議団は本部を関東配電ビルに移し、120日にわたって闘争を継続。
・「読売争議は明らかに、吉田内閣成立とともに一時的後退を余儀なくされた労働運動の高揚を切り開く突破口となった闘争であった」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)
 「労働者は6月13日の6名の首切りから始まった読売第2次闘争をキッカケとして、ふたたび攻撃に転じた」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

▼東京都労連の業務管理闘争
・6/8東京都労連結成
・6/21〜飢餓突破賃金を要求して、業務管理闘争。
 区役所業務、都電、都バスの運行など。

▼国鉄と海員の闘い
・海員・・・4万3000人の首切りに対して、9/10〜歴史的なストに突入。
      大型船229隻、機帆船3550隻がストップ。
      海員組合のボス支配は崩壊。
・国鉄・・・7/24,7万5000人の首切り通告。東京、新潟、札幌、仙台の4智連を軸に9/15〜スト突入を確認。国鉄当局は前日に解雇撤回。
・「国鉄と海員の首切りに反対するストは、このような情勢のもとで、一挙に2・1ゼネストになだれこむ態勢を確立していく重要な闘争であったし、飢餓と失業と低賃金と首切りに対して労働者は明らかに戦闘力を回復し始め、ゼネストへと向かいはじめた」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)
 →産別会議の結成大会での決定
 →全国いたるところで、国鉄、海員のゼネスト支援の共闘委員会と防衛隊がつくられた。
 (斎藤一郎『戦後労働運動史』)

■「戦後革命期を牽引する国労と全逓」(中野洋『戦後労働運動の軌跡と国鉄闘争』)
@国労
・46年2月7日、国鉄総連合結成
 この段階では、まだ各地でつくられた組合の連合体。
 釧路工機部(釧路工場)・・・一番目。
 東京でも電車区・・・田町中心。
・国鉄総連合は、上からつくられたという要素と、下から、現場の労働者の力でつくったという要素の二つが一緒になっていたという傾向。
・一貫して階級的立場を貫いていたかというと必ずしもそうではない。右と左が年中ぶつかり合う。

A全逓
・共産党の直轄指導下

◎この当時の労働運動の大きな特徴は、労働組合をつくるとただちに闘争になるということ。

(4)10月闘争
@9/14〜15,国鉄・海員ストに応えて共闘スト
・全日本機器の池貝鉄工、新潟鉄工、三菱下丸子など
 電工の東芝、安立吉田、同麻布、沖電気など
 全鉄鋼の三菱製鋼、日本特殊鋼など
 全炭の九州、北海道、常磐など
 全印刷の大日本、凸版など

A産別会議、9/18〜19臨時執行委員会
・「産別の緊急執行委員会は『あくまでゼネスト基調にして闘争へのかまえをかためる。ゼネストをとくときは、最高闘争委員会にはかり、単位組合がかってに行動しないこと』を確認した。産別会議は結成後、日ならずして、ゆるい会議体では強力な統一闘争を組織することはできないことを知り、実践のなかで、それを訂正したのである」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

B10月ゼネストへ
▼9/20新聞通信放送の東京支部が読売争議解決のためのゼネスト決行を決定。

▼東芝の関東、東北系33工場、3万名が24時間スト。

▼新聞、東芝を軸に、全映演、電産、全炭、全鉄労、印刷、出版、国鉄、海員が共同闘争委員会を結成。

▼全日本機器、化学、教員、車輌、全逓、医療など産別参加の全単産も。

・「制憲議会が大詰めを迎えようとしているとき、産別会議に結集している労働者は、ゼネストをもって決起しようとしていたのである」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

C日共の支離滅裂と資本家階級への屈服、指導性の放棄
・共産党・・・「本質上、経済的なものであり・・・現在の労働組合運動の主観的、客観的条件からしても、政治的ゼネストの形態をとるべきではない」
 「共産党は・・・一切の闘争は『吉田反動内閣打倒、人民共和政府の樹立』に結びつかなければならないという方針を決定していた。・・・ところが政治スト攻撃が始まると、あわてて政治ゼネストをやるべきではないと説教し始めたのである」
・「しかし、労働者の方が、共産党や産別より先に進んでいた。10月闘争は経済闘争として出発したが、その闘争の発展のなかで、自分たちの要求は、吉田打倒という政治的要求と結びついていることを知ったのである」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

D10月ストへの突入
・「9月闘争は東芝、新聞通信、全炭によってひきつがれ、産別は全組織をあげて10月闘争になだれ込んでいった」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

・10/1 全電工の東芝63組合中59組合、4万4000名がスト突入
      翌日、武装警官隊が襲撃、第8軍は工場閉鎖の恫喝
・10/5 新聞通信放送ゼネスト
      武装警官隊とMPが朝日新聞社を包囲
      NHKから労働者を暴力的に退去
      朝日と毎日は部分ストのみ
      地方放送局には20日間赤旗ひるがえる。放送ストは25日まで続く。
      高萩炭鉱には暴力団が襲撃。
・10月闘争の争議参加の延べ人数は291万2326名。

(5)ゼネストの準備(その1)
@電産、日本教員労働組合、全逓の闘い
・「電産型賃金体系と呼ばれる電産の闘争は、10月闘争までの賃金要求形式が、・・・3・1物価体系で決められた500円の枠を突破しきれなかったものを、生活保障給を基礎に要求を提出し、500円の枠を打ち破ったことに意義をもっている」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)
 「電産は生活給中心の賃金体系案を作って、全国の主要工場に対する送電停止という戦術で闘い、勝利しました。日本労働運動史上初めて、労働組合がイニシアティブをとって自らの賃金体系を確立したのです」(斎藤弘平『労働運動史』)
・「電産の闘争と並行して教員も最低生活確保の要求を政府に提出しはじめた。すなわち、最低生活600円保障、地方差と男女差別撤廃などをかかげ、・・」
・「全逓が10月26日から開かれた京都大会で、本人800円、家族一人200円の賃金要求を決定」
・「国鉄も最低基本給650円などの要求を決定」
 (田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

▼11/26全官公庁共同闘争委員会が結成、国鉄の伊井弥四郎が議長に就任。
 12/2には共同闘争宣言。

▼「かくて、国鉄、海員のストをもって始まった9月闘争が、新聞、放送、東芝などを軸とした10月闘争に発展し、さらに電産、教員の闘争を媒介にして2・1ゼネストにとむかう態勢がつくりあげられていったのである」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

A47年1月1日、吉田首相のラジオ演説 「不逞の輩」発言

B全官公庁共闘、1/18スト決行宣言大会

▲47年2・1ゼネスト。中央が全官公庁共闘本部議長の伊井弥四郎。

・2月1日の午前0時を期してゼネストに突入することを宣言。
「この共闘のゼネスト宣言は、民間産業の労働者をも動かした」
「すでにこの時期になると、全官公庁共闘は、・・・都市同盟、都労連、全財務、全医療、大学高専職組、進駐軍要員労組、都市交通なども参加して、260万の労働者が組織され」
「全日本機器などを中心とする金属労働者が、官公労働者のゼネストに呼応して決起」
「全官公庁共闘には、総同盟系組織の下部組織も参加」
(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

C産別会議を軸に、全官公庁共闘、総同盟、日労会議などすべての組織労働者を結集した全国労働組合共同闘争委員会(全闘)が組織されていく。
・「この全闘には産別、総同盟を含めて、日本の労働組合の90%が参加した」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

・「全官公庁共闘を含めて、全闘の闘争体制をより強力なものとしていったのは、青年行動隊であった。1月19日、全国青年行動隊合同要求貫徹促進大会準備会は、全闘に対して妥協を許さないという申し入れを行った」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

・「だが、このようにスト態勢が進んでいくなかにあっても、重大な落とし穴が ・・・それは、産別会議のヘゲモニーを握っていた共産党の指導である。2・1ストを準備し、指導したのも産別会議にいる共産党員であり、それを破壊し、解体せしめたのもまた、徳田らの共産党員であった」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

(6)ゼネストの準備(その2)
@「ゼネスト突入はもはや必至」
▼「産別会議はゼネストを前にして事務局を組織部と情報・宣伝部の2つに改組し、アジトをつくって連絡方法をうち合わせ、第2,第3指導部の準備にもとりかかっていった。戦前の評議会や全協のストライキ闘争の経験のあるかれらは、ゼネスト突入によって『平和』的にのみ事態が動かないことを直感していたからであろう」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)
 「産別会議はスト突入の直前に、指導機関の一部を地下に移すことを決めて、準備を終えた。異常な緊迫した空気が全国をおおいつつんでいた」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

▼「2・1ゼネスト突入は、文字通り、階級関係の赤裸々なむき出しの対立と激突をつくりだし、46年4月危機の回避にともなう支配階級の反撃を一挙にうち砕き、戦後革命の勝利の展望を切り開こうとしていたのである」
 「欠如していたものは革命党の指導だけであった」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

A2・1ゼネストに対する日共の対応
・「『連合軍によって保障されている』ストライキだから占領軍は絶対に干渉してこないというのが共産党の前提であった」
*12/12の東洋時計埼玉上尾工場の生産管理闘争に対する、MP・武装警官・暴力団一体となった武装襲撃。支援に駆けつけた富士産業大宮工場の斎藤三郎が虐殺。
・「共産党は、『民主政府』樹立を要求するゼネストが、経済要求が入れられることによって停止するといってみたり、他方で閣僚名簿だけが準備されたり、1月31日になると、共産党本部が『革命来る』の興奮でごった返していたという状況を見せていた」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)
・「アメリカ帝国主義軍隊の軍事占領におかれている国で、労働者階級の闘争が、民族解放闘争と結びつくことなしに、革命的情勢をつくりだすことはできないことを知らずに、あらぬ事を口走っている共産党の姿」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

B2・1ゼネストの挫折
・「GHQは、全官公庁共闘のゼネスト宣言が出されるや公然たる干渉にのりだした」
 1/22経済科学局長マーカットのスト中止勧告

▼「しかし、共闘と全闘は当然の事ながら、この中止勧告をける回答を1月25日、GHQにたいしておこなった。・・・経済科学局の労働課長コーエンは ・・・22日の中止勧告の時よりさらに一層明白な弾圧と武力介入の姿勢を 強調したのだった。このとき、全闘の代表は『われわれはよしんば投獄されてもこのストはやめられない。事態はそこまできているのだ。・・・マッカーサー元帥やコーエン氏の立場はわかったが、その立場に日本の労働者が立つわけにはいかない』と答え、ゼネスト態勢を崩そうとしなかった」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)
 「26日にも総司令部労働課からの呼び出しがあったが、いうことは同じことであったし、労組代表はいつもからかって帰ってきた」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

▼「だが、このようなGHQの公然たる武力干渉が明るみに出されたときにいたっても共産党本部の事態の認識は無知そのものであった」
・野坂「アメリカ占領軍は絶対に弾圧できない」と強調
・産別事務局の斎藤一郎が1月30日、共産党事務局から呼びつけられ、野坂や伊藤律から「占領軍は中止命令を出しえない。マーカットはおどしているだけだ」と言い渡される。

▼1/30、GHQは共闘代表に対し最後通牒。
・「だが、GHQの脅迫にもかかわらず、労働者は『闘い』を選択したのである」
 全逓中闘・・・58対16でスト突入の最後決定。
 国鉄中闘・・・スト突入を再確認
 共闘・・・31日午前0時、拡大委員会を開いてスト決行を再確認。
・「全闘加盟の全組合は全逓、国鉄を守るために、全国いたるところで防衛隊を組織した」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

▼期限の31日午前2時、GHQにスト中止命令拒否の回答。

▼31日午前2時30分、マッカーサーがスト禁止命令を発表。
・「斎藤一郎は、この中止命令がでても産別会議は少しも動揺しなかったと書いている。なぜなら、30日深夜のスト決行再確認は、当然このような事態になることを含んでの確認だったからである」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

▼共産党中央の屈服と切り崩し
・「決定的な瞬間に、誰よりも慌て動揺したのは、労働組合でなくて共産党指導部であった」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)
 「午後6時30分、共産党は共闘代表に断ることもなく、勝手にスト禁止命令を受け入れることを全党に指示しました。国労には書記長の徳田球一が、全逓には徳田の懐刀の伊藤律と長谷川浩が、それぞれまだスト態勢を解除していない段階で闘争委員会に乗り込んで、ストをやめるように『説得』しました」(斎藤弘平『労働運動史』)

・「労働者はかれらを”火消しポンプ”といって嘲笑した」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

▼「伊井放送のあとで、全官公庁共闘は、占領軍でさえ直接手を下しえなかった共闘解散を35対4で決定した。全闘もいそいで解体を決めてしまった。・・・革命的高揚のなかで闘わずして引き下がることは反階級的行為である。 闘わずして引き下がるよりは、闘って敗れた方が、労働者階級にとっては、まだ害が少ないものである」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

*事実経過の問題として
 「2・1ストが労働者階級に権力の問題を直面させ、占領軍の干渉が表面化してくるにしたがって、労働者階級も産別も事態の収拾を共産党と社会党の倒閣実行委員会にあずけだした」(革共同労対部『戦後革命の敗北』)

C2・1ゼネストの総括問題
・「すなわち、2・1ストにいたる革命的高揚は、日本労働者階級とその戦闘的分子としての個々の共産党員が、党中央の指導の下に一糸乱れず闘ったのではなく、むしろ党中央と産別指導部の間に、2・1ストをめぐる対立にあらわされるような明白な差異があったことを見なくてはならない」
・「2・1ストの裏切りは、単に『解放軍』規定だけの問題ではない」
 「産別指導部は、占領軍のスト中止命令を拒否してスト突入を確認していたにもかかわらず、日本共産党中央の圧力の前に屈した。このことは、労働運動の指導部が、労働者階級の革命化という圧力を直接受けて、党中央とは独自の路線で闘争を指導してきたが、結局最後の土壇場で共産党中央に屈してしまうという問題を投げかけている」
 (革共同労対部『戦後革命の敗北』)

▼「運動の断絶で厳しい主体的条件」(中野洋『戦後労働運動の軌跡と国鉄闘争』)
@当時、日本の労働者の前衛党といえば、日本共産党しかなかった。
・戦闘的でまじめな労働者はほとんど結集。
・しかし、共産党の幹部は、つい最近獄中から出てきた連中。路線的誤りとともに、治安維持法の獄中を長年経験してきた人たちに、出てきていきなり指導しろという、相当厳しい要素。
 cf.徳田球一

A1940年の産業報国会結成、労働組合運動的なものは壊滅。運動的経験の断絶
cf.細谷松太・・・秋田か山形にいたのを共産党が呼び出す。吉田賢治、春日正一・・・ほとんど素人みたいな人たち。

◎「国鉄にも、満州鉄道や朝鮮鉄道から引き上げてきた労働者とか、あるいは 特攻隊あがりとかを含めて60万以上の労働者がいた。そして47年2・1ストまでのぼりつめていく。あのエネルギーというか、純粋さというのは、共産党の路線問題とは区別して評価すべきではないかと思います」

▼全労連(全国労働組合連絡協議会)の結成(47年3月)
・全官公、全闘の解散
・産別会議、総同盟を越えてつくられた組織、466万、組織労働者の84%
・50年には団規令によって解散

(7)生産管理闘争、2・1ゼネスト、職場支配権と企業別労働組合の意義
・「2・1スト後に生じた労働組合運動の後退と分裂についてのこのような見方、つまり企業別労働組合という組織形態にその根源を見いだそうとする分析の視覚」 
 「『会社組合』『ポツダム組合』などといったような呼称が与えられ、組合運動の分裂と企業主義的傾向の要因を組織形態にのみ安易に求め、機械的に産業別労働組合論を対置する考え方」
・「しかし、労働組合の組織形態は、資本制生産の発展とその危機のもとで、労働者階級の組織的結集の歴史的制約性を有する問題なのであって、客体的・主体的条件を捨象して組織形態を論じることは、・・・指導部の問題が免罪にされる都合のよい理屈に転化しかけない」(田川和夫『戦後日本革命運動 史T』)

*明治政権下・・・「職業別組合」「職種別組合」
*第1次大戦後・・個人加盟にもとづく「産業別組合」または「地域的組合」。幾多の大ストライキを実現していく上にも、労働者を一人ひとりオルグして組合に参加させていくような組織形態が必要だった。

▼「戦後は事情が一変した・・・戦前の労働組合の組織過程に一般的であった個人説得、個人加盟を基礎とする一種の職人的オルグをもってしては、歴史の急激な変化、換言するならば、帝国主義体制の危機の激化と労働者運動の高揚という客体的・主体的条件の下での組織化においてなんの役にも立たなかったのである」
・「資本家階級が職制支配のための物質的保障を全く喪失してしまったとき、社員、雇員などの区別なく、生きるための手段として労働組合に結集するという従業員一括加盟の企業別組合の組織化が急速に進んでいった」
・「しかも、生産管理が争議戦術の中心にすえられていった初期の労働組合運動にあっては、このような組織形態は最も有効な役割を果たしていった」
 (田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

▼「換言すれば、職場のなかに労働組合運動の自由を確立したのは、戦後労働組合運動の闘いとった権利なのである」
・「全従業員を闘争のるつぼのなかに叩き込み、資本階級を震え上がらせ、職場を革命運動の砦と化していくためには、一経営一組合という組織形態は最も有効な役割を果たした」
 cf.農民組合(一村一組合)、全員加盟制の学生自治会
 (田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

▼「企業別労働組合の産業別連合体である産別会議が分裂・崩壊し、総評の結成に見られるように、『企業主義組合』に転落していったのは、企業別組合という組織形態から生まれてくる必然の結果なのではない」
・「それらのことは、ことごとく、労働運動の敗北が前提にすえられている」
・逆に「企業別組合を唯一の組織形態として絶対視してしまう」ことの誤り。
 (田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

【4】48年政令201号、49年「百万人の首切り」との闘い
(0)この過程の特徴
・「戦後の日本資本主義の危機は、50年の敗北まで続き、49〜50年の”百万人の首切り”といわれる大資本攻勢に直面して、日本労働者階級は、国鉄、全逓、日立、東芝の首切り反対闘争を先頭に総反撃に転ずる契機をもった」(革共同労対部『戦後革命の敗北』)

(1)47年4月選挙
・「46年11月の新憲法成立と、それにもとづく統治形態が確立されるためには、2・1スト中止という貴重な代償を労働者階級が支払わねばならなかったのである。つまり、2・1スト中止は、単に全官公庁共闘態勢を切り崩し ただけではない。2月1日をめぐる激突が回避されたことこそが議会選挙によって秩序を回復する端緒になっていった」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

・「選挙に敗れたのは、吉田内閣の与党であった自由党と、2・1ストを挫折させた共産党であり、議席を増加させたのは、野党である社会党と、自由党と連立政権を組みながらも吉田内閣に批判的姿勢をうちだした民主党とであった」
 「しかも、共産党の得票数が100万2000票であったということは、全官公庁共闘に組織された260万の官公労働者、産別会議に組織された160万の労働者を選挙の過程でほとんど掌握することができなかったことを同時に意味していた」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

(2)片山内閣の登場
@社会党首班の連立政権
・「自由、民主両党に受け入れられる四党政策協定、そして『社会主義革命』を主張していた社民左派の屈服などが前提になってはじめて片山連立政権は誕生した。したがって、片山内閣に与えられていた課題は、労働者階級の闘争の爆発を抑止しつつ、戦後日本資本主義再建の端緒をうちかためることだけだった」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

・「社会党が第一党となった4月選挙の結果によって、支配階級が政治過程のヘゲモニーを完全に奪い返したわけではなく、事態はなお流動的だったのである」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

A「経済緊急対策」
・新物価体系の制定と1800円ベース賃金の導入
・傾斜生産方式の継続と価格差補給金などによる独占体の利潤確保
・物価は戦前の65倍に、賃金は戦前の25倍に抑える

・「『重点産業の継続と・・・経営の健全化』をうたいながら、傾斜生産と称して石炭、鉄鋼などの重点産業に政府資金と資材を集中しながら『産業整備計画と過剰人員の・・・配転』、うまり大量首切りによって、独占資本の立ち直りの地ならしをやってのけた」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

B戦後日本資本主義再建の露払いの役割
・「社会党内閣の登場によって、・・・労働攻勢の爆発が抑制されていった結果、労働者の組織的抵抗が弱まり、労働者の不満は、ヤミ、買い出しなどという個人的手段に頼る消極的抵抗のなかに自己の生活確保の場を見いだしていかざるをえなかった」「戦後革命の背骨を折るような反動攻勢の到来を片山・芦田内閣のもとで助けていくことになるのだった」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)
・「戦後日本における社会民主主義は、この惨めな屈服の過程が、とりもなおさず自己が政治過程に登場していく過程でもあったのである。そしてまたそれは、帝国主義の戦後世界体制創出のための一翼をなすものであった」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

・「かくして労働者階級は、・・・インフレにもかかわらず、没階級的な生産復 興闘争に血道をあげる日共によって、賃金闘争に全力をあげて組織することもできず、給与審議会での駆け引きと交渉の枠のなかでとどまった」(革共同労対部『戦後革命の敗北』)

・共産党「新生活運動」提唱
 「政治局員志賀義雄は『この”物価は公定で、生活は配給で”の新運動は、労働組合と農民、小市民、中小業者とを結合するものであり、もっとも多面的な人民民主主義の新しい表現となり、生産復興運動のいきいきとした前提条件となる』といったが、これは賃金闘争と食糧闘争の放棄を強制するものであり、何も食わないで、資本家のために働けということであった」
 「このようにして政党は政党であることをやめ、労働組合は労働組合であることを、自らやめてしまったのである」
 (斎藤一郎『戦後労働運動史』)

(3)アジア支配の危機、対日政策の転換
・「2・1ストの敗北は、スターリン主義運動の反労働者的本質を余すところなく自己暴露し、労働者階級の自己解放の闘いを勝利に導くためには、このようなスターリン主義運動からの訣別が根底から問われはじめていることを労働者階級に教えていた」
 「だが同時に、アメリカ帝国主義を基軸とする冷戦政策と資本攻勢の激化のきざし、そしてこの冷戦政策に対応するソ連圏の一国社会主義と平和共存政策の推進は、帝国主義とスターリン主義が、全世界の労働者人民に敵対する現代世界の矛盾の根源であることを鮮明にさせつつあることでもあったのである」
 「つまり、戦後世界における世界革命戦略そのものが根底から問われはじめていたのであるが、そのためには、戦後革命の敗北という労働者階級にとっての貴重な犠牲をともないつつ、スターリン主義運動の分解と崩壊を先行させねばならなかったのである」
 「まさしく、片山内閣登場以来、1949年にいたる2年間は、冷戦政策の転換のなかで、あまりにも悲劇的な過程をたどっていったのである」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

(4)労働運動の後退と分裂−民同の発生
@産別会議の自己批判
・2・1スト以降の労働組合運動の沈滞についての自己批判
 47年2月以降のストライキの激減→5月には16件、1338名に
・「労働組合はストライキをさけ、要求解決を交渉の場に移し、統一交渉−個別交渉−統一交渉を繰り返していた」
・「片山内閣の最大の”功績”のひとつは、・・・労働相、農相などのポストを社会党が占めることにより、食糧危機については資本主義再建のための”計画的”遅配であると人民大衆に説明し、そして労働争議をおさえたことにあったといっても過言ではない」
・「当時の労働運動の基軸は、産別会議にあり、その指導権が共産党にあったことを考えるならば、共産党の労働運動指導そのものが、屈服への姿勢を強めてしまったものに他ならなかったことの反映」
・「共産党は、・・・労働運動が困難な局面を迎えたとき『ダンスを中心とする娯楽方面で大衆をつかみつつある』といって『生活を豊かにする組合』への転換を労働者大衆に要求」

▼「このような労働組合運動の危機のもとで起こったのがいわゆる『職場離脱』」
 「それは片山内閣の登場と同時に全国的に蔓延し、47年6月になると全逓で平均30%、最高42%、私鉄の西鉄などでは40%をこえた」
・「共産党はこのような労働組合運動からの離反を本質的内容とする職場離脱について労働者の独創的な戦術であり、地域人民闘争の萌芽であるとほめそやしたが、労働者の抵抗と呼ぼうとなんといおうと、・・・労働組合運動に対する不信感の増大以外のなにものでもなかったのである」

・「大衆はふたたび職場にかえって闘争の準備を始め、5月を転機にして、賃金闘争に立ちあがりはじめた。そしてうっぷんを産別に向け、自己批判を要求した。この産別に対する自己批判の要求は、同時に共産党に対する自己批判の要求であることは、共産党も知っていた」

・「産別会議からの労働者の離反は、・・・共産党からの労働者の離反をも意味するものであったがために、共産党は逆に産別会議に自己批判を強要することによって自己の責任を回避しようとはかった」
・「だが逆に共産党本部は、・・・産別グループに非難を浴びせかけさせた。共産党の攻撃した点は、・・・特定政党による支配を産別会議が自己批判した一点にむけられた」
*産別会議の自己批判において
 「一、・・・。二、特定の政党の直接の指導下にあるような印象を大衆に与えた。三、・・・。」

・「産別グループは解体の危機・・・この危機を生んだのはいうまでもなく、共産党のめちゃくちゃな指導に起因しているが、それにたいする直接的な反発が民同の発生をもたらしたのだ」
 (以上、田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

▼「大衆は、労働者階級の利益を無視するかかる組合に絶望し、食糧を求め職場離脱を開始し、国鉄、全逓を中心に全国的に波及していった。これこそ、労働者階級の組合不信の表現であり、帝国主義とスターリン主義に苦悶する労働者階級の自然発生的な抵抗であった」(革共同労対部『戦後革命の敗北』)

A民同の発生
▼産別民主化同盟の結成(48年2月13日)
・運動の基本的態度
  政党、資本家、政府から支配されない労働組合の自主性の確立
  共産党のフラク活動の排除
  これまでの生産復興闘争は資本家の欠点のみ指摘してきたが、労働者の責任も追及し、職場秩序を確立する。
・「戦後労働運動の革命的爆発の中核を担った産別会議を分裂させる右翼日和見主義の台頭」
 全日通−日通会
 電産 −みどり会
 全逓 −民主化同盟
 印刷、電工、機器、日映演、車輌、化学、生保などの単産にも

・国鉄反共連盟の旗揚げ(47年11月7日)
 炭鉱労働組合全国協議会(炭全協)の分裂
 新聞放送単一−読売支部と毎日支部の脱退、放送支部が脱退して日放労の組織化
 全日本機器−不二越、日立亀有、月島機械鶴見、日本タイプなどの分会に脱退の動き

・全逓民主化同盟(48年3月)
 中央指導部は日共+日共シンパが握っているなかで、民主化同盟は日共シンパ層から出てくる。中心は宝樹文彦。

・「そのような運動を統一していく理念が反共主義であり、組合主義である以上、どのように共産党の誤謬を現象的に批判しようとも、このような民同の誕生は戦後革命を敗北させようとする帝国主義の攻撃の一側面をなすものであった」
・「2・1スト後、GHQが共産党フラクの排撃を公然と唱え、国鉄、全逓、教員が、非民主的組合の代表的なものだと攻撃し、・・・先に挙げた一連の組合の分裂と民同の形成とは、いうまでもなく、GHQの労働政策に沿ったもの、換言するならば、占領下における合法主義的な組合運動を形成することを意図したものなのであった」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

▼「のちの民同といわれる労働運動の源流は、産別会議の中心中の中心、バリバリの共産党員によってつくられた」「民同の一つの出発点は共産党の分裂」(中野洋『戦後労働運動の軌跡と国鉄闘争』)

(5)日本共産党の分解
@日共の大衆化
・「2・1スト以降の労働運動に対するGHQの弾圧が激化していくなかにあっても、なおかつ共産党が自己の影響下に人民大衆を組織していったことを無視することはできない」
*党員採用の無原則性
・「しかし、日共のこのような大衆迎合的党勢拡大は、党員大衆の著しい思想的後退を生み、そのことが後に、49年の大敗北にさいし、党員大衆がなんらなすすべなく屈服していった一因にもつうじていくことになるのであった」
・「だがしかし、・・・なおかつ青年労働者や学生の最良の分子を日共がなぜ吸収しえていったのかをとらえかえしていくこと」
*産別会議の中軸を青年労働者が占める
*戦後における価値観の急速な崩壊
 「帝国主義に対する憎悪と戦時下における自己の否定とは、当然の結果として民衆を共産党の周囲に結集させたといえる」
 「当時、戦闘的な労働者や学生が社会党に接近するなどということは、およそ考えることさえできないこと」

◎「戦後における労働運動の爆発は、・・・むしろ共産党との関係を倫理的にとらえ、自己の戦後を出発させた労働者大衆の力であった。そして彼らが共産党に吸引されていくことが、客観的にはまた革命の敗北を準備するという相関関係を生んでいった」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

A第6回党大会(47年12月21日〜)

(6)官公労働運動
▼対日合衆国行政顧問団の団長フーバー
 「(1946年〜1948年初め)・・・某々数省においては、数千という職員がその勤務時間の全部を職員組合の仕事に費やし、それに熱中していました。かれらは勤務時間中に数千人におよぶ組合員の会合を開催していたので、その間は役所の事務は全く停止されていました。かれらは役所の建物の中で、数個の最も良い室を占拠していてこれを職員組合の用にあてていました。・・ ・またかれらは、勤務時間中に役所の費用を使って、役所の仕事を犠牲にしながらデモ行進やストライキなどをやっていました」
・「GHQが、・・・官公労働者の闘争を挫折させることによって、戦後労働運動の背骨をも同時にたたきおり、労働運動をバラバラに解体させ、企業主義のくびきのなかに引きずり込もうとした」
・「48年になるや、ますます官公労働者とGHQ、支配階級との対決が階級闘争の全局面を規定することになっていこうとしていた」
 (田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

(7)48年3月の闘い
@片山内閣の労組法・労調法改悪の準備→官公労働運動解体の攻撃
・現業官吏のスト権剥奪
・労調法でいう公共事業の拡大
・労働委員会の裁定に強制力をもたせる
・組合専従者の給与を組合負担にする

A48年3月10日、片山内閣は総辞職

B芦田内閣の発足と労働者の闘いの前進
・国鉄・・・中闘で2920円ベース受諾を決定、臨時大会で326対84で正式受諾
・全逓、全財務、日教組、自治労連、都労連、全官労、大蔵3現業の全官公7組合は共同闘争委員会を設置。
 全逓・・・連日、3時間〜72時間ストに延べ904支部が参加
 全財務・・・3/15現業24時間スト、非現業が一斉賜暇闘争
 日教組・・・3/12大阪教組が24時間スト
・3月、電産の波状的停電スト
・3/20国鉄にのみ新賃金の支払い開始
・3/25全逓24時間スト
 農林、大蔵、物価庁、統計局などの全官公傘下の半数以上の単組が一斉賜暇闘争。
 3/26全官公の残りも賜暇闘争。
・国鉄−北海道、青森、新橋、国府津などで本部不信任が議決、共闘を決定
 全日本機器、全電工なども24時間スト。
・3/29全逓、東日本一帯が一斉スト。15万人参加。
30には西日本、31には全国一斉ストを準備。
・「ベース賃金に対する断固たる闘争の決意が込められていた。3月闘争の火ぶたはきっておとされようとした」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

C再度のスト禁止
・3/27、29 全逓ストに対するGHQの覚書
・3/30東海、北陸、近畿、中国、四国、九州の西日本一帯のストを決行
 4月の全逓ストライキの続発
 東京搬送電気工事局支部による軍事用回線の切断

・共産党の屈服、全逓、全官公への2920円ベース妥結の強制
・ベース賃金の押しつけ
 「ところが、共産党の調査部が金額は不満だがこの賃金の決定方式を承認するという趣旨の見解を『アカハタ』に発表したのです。その頃共産党の権威は現在では想像できないほど絶大でしたから、これによって次第にベース賃金反対の声は薄れていってしまいました」(斎藤弘平『労働運動史』)

・「2・1ストに引き続き3月闘争の再度の挫折は、戦後革命をおしつぶすくさびをうちこませる重大な契機となっていった」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)
*軽犯罪法、政治資金規制法の制定
*公安条例の制定

(8)経営権の確立
◎日経連の発足
*資本による経営権、人事権

・米帝も日帝も、2・1ストにむかう日本の労働者階級の闘いのなかに、革命のヒドラを見た。
・「経営者よ正しく強かれ」
*敗戦直後の経営者=生産サボ
 これに対して労働組合が生産管理闘争
・48年から労働組合に対する徹底した弾圧攻撃へ

(9)政令201号との闘い
@公務員法改悪に関するマッカーサー書簡(48年7月22日)
・公務員労働者から争議権を剥奪する要求

A政令201号公布(7月31日)
・公務員は同盟罷業、怠業的行為などの行為を裏付けとする拘束的性質を帯びた団体交渉権を有しない
・継続中の斡旋、調停、仲裁の手続きを一切中止
・同盟罷業、怠業、業務の運営能率を阻害する争議手段の禁止
・違反したものは1年以下の懲役、または5000円以下の罰金

B日共の反革命と労働者階級の敗北
*マッカーサー書簡の賛美
 「政府は全官公庁の闘争を弾圧するために、これを利用しようとしている(から)・・・われわれはこれに(政府に)対して全面的に反対しなければならない・・・書簡は団結権を認めている」

・「スト権、団結権の剥奪は解釈の問題ではなかった。マッカーサーはハッキリとスト権、団結権を剥奪したのである。労働者が憤激して闘争に立ちあがらんとしているとき、共産党は占領軍を弁護するという・・・態度をとったのである」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

・「マ書簡にもとづき後に、日共が最大の影響力を保持していた電信電話部門を郵便部門から切り離し、逓信省を郵政省と電気通信相に2分割したことは、ひとつには、2・1スト以降の最大の砦である全逓の破壊のためであり、2つには、アジア危機のなかで、アメリカ占領軍の軍事用回線を維持し、通信手段を軍事的にふたたび再編するためであった」
・「政令201号にたいして、全官公や、国鉄、全逓はたしかに『非常事態宣言』を発した。だがそれは、・・・全国的な統一実力行使による反撃に出ようとは決してしなかった。そのため、8月闘争は、職場放棄という戦術となって発展していかざるをえず、全国的統一指導が欠如した時点では悲劇的な敗北をまた被ってしまった」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

C職場放棄
▼四国の松山機関区分会の闘い
・7月ダイヤ改正にともなう労働強化に対し、集団欠勤または乗車拒否
 →当局は政令201号違反で乗務員会長山内元春機関士他3名を解雇処分
 →分会は無期限ストに突入、8/7には10名、8/12には4名が逮捕

▼旭川支部新得機関区分会の職場放棄闘争
・「民族独立柚原青年行動隊」を組織化、職場を放棄、北海道各地に宣伝とオルグに。
 職場放棄は富良野機関区、追分機関区、苫小牧、旭川、北野、室蘭と北海道全土に拡大
 職場離脱者1489名
 列車運休 4046本
 検束者   584名
 免職   1002名

▼職場放棄は国鉄から全逓に拡大
 釧路、函館、室蘭で闘いが発展、宮城、長町に波及、ストライキに発展
 126名に逮捕状
 東京中郵、東京中電、大阪中電に拡大
・日立では8/24、日立郵便局前で不法弾圧反対人民大会に1000名
 労働者36名が重傷、74名軽傷
 →日立電線、日立製作所、日立鉱山など約1万5000名の労働者が職場放棄(日立全市の抗議ゼネスト)

▲48年8月19日、東宝争議の様子。

▼東宝争議への武装弾圧
  8/19、労働者の占拠している撮影所に対し、アメリカ第8軍の戦車7台、騎兵一個中隊、飛行機3機に護衛された武装警官1800が襲撃。「来なかったのは軍艦だけ」

▼この闘争で国鉄584名、全逓336名の逮捕者
・「労働者は、共産党の『解放軍規定』などを無視して、戦後はじめて権力に対する大衆的激突にはいろうとしていたのである」
・「だが、共産党も、また共産党に指導されている産別会議も、闘争の意義を何一つ理解しようとさえしなかった」
・「9月以降になると職場放棄は下火になり始め、政令201号をはね返せないまま、後にもふれるようなドッジ・プラン、行政整理と企業整備をむかえていくことになる」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

(10)第2次吉田内閣とドッジ・プラン
@芦田内閣の総辞職(48年10月7日)
・昭和電工疑獄

A49年1月総選挙=民自党の圧勝、第2次吉田内閣の登場
・社会党の凋落、共産党の議席数拡大

B経済安定9原則(48年12月18日)
・「日本資本主義の安定を直接的にめざす『9原則』は、中国革命の勝利が必然的となり、アジアにおける植民地支配体制の崩壊が帝国主義の危機を拡大していくことに対応したアメリカ帝国主義ののアジア政策の強力な要にすえられたもの」(田川和夫『戦後日本革命運動史T』)

・共産党は「・・・経済復興のための9原則は、ポツダム宣言無条件受諾によって、日本政府が忠実に実行すべき義務をおうものである。・・・」

・GHQによる石炭、海員、電産、全繊維、私鉄の賃金闘争のへの弾圧

C9原則にもとづく予算案の作成、国会通過
・「1949年〜1950年に、国家予算の約三分の一(29,5%)が、国家『交付金』『補助金』の形で財閥に支払われ・・・、独占資本の利潤を強化する重要な源泉となった」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

(11)団規令と公安条例

▲49年5月31日、都庁前での公安条例制定反対デモ。

・「49年4月、突如としてGHQの指示のもとに団体等規正令(団規令)が公布・施行されました。政治団体は全成員の氏名と住所を法務庁特別審査局(新設、公安調査庁の前身)に登録する義務を負うという弾圧法規です」
・「ところがなんと共産党はこれに応じて氏名を登録するよう全党に指示したのです。10万名以上もの党員が存在することを見せつければ権力に対するデモンストレーションになり、弾圧したくてもできなくなるだろうというのがその理由でした。・・・革命をめざす政党が国家権力の前に自らの党員名簿を差し出すという、世界の革命運動史上例のない裏切り行為がおこなわれたのです」
 →レッド・パージ

・「これにたいして産別会議は、産業防衛闘争なるものを対置しました。これは共産党の次のような情勢認識にもとづくものでした。日本はアメリカに尻尾を振る一握りの買弁資本によって牛耳られ、その下で多くの民族資本や労働者・農民が苦しめられている。買弁資本とは金融資本であり、民族資本とは産業資本であるという、およそ現実離れした情勢認識です」(斎藤弘平『労働運動史』)

(11)労働2法の改悪
・「9原則攻勢は、労働法規改悪計画もともなっていた。・・・2月3日、労働省は『労働組合資格審査基準』を全国に通達し、2月14日、抜き打ち的スト禁止、団交における単位制度確立をふくむ労組法、労調法の『改正』案を発表した」
・「労働法規改悪反対闘争は、全国的に広がり、総同盟加盟組合の労働者たちも立ちあがった」
・「しかし、賃金遅払反対闘争、あるいは首切り反対闘争と結びつかなかった」
 (斎藤一郎『戦後労働運動史』)

(12)百万人の首切りとフレームアップ
@定員法と企業整備
・「2月26日、政府は近く『発生を予想される離職者数の推定数』を188万と発表したが、これは推定でなく計画であった」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

▼電気機械、機械工業、金属、化学等産別の中心部における大量首切り
・大同製鋼 1,300+3,000名の首切り/10,000名
・日本電気 3,500名の首切りと4,500名の配転/10,000名
・沖電気  2,800名の首切り/6,700名
・三菱電機 13%の賃下げと10%の首切り
・東芝   44工場中、28工場の整理

▼「民間企業に企業整備の嵐が吹く荒れている49年5月、行政機関職員定員法(定員法)が成立します。これは法律で政府機関の定員を定めて、これを越える職員は余剰であるとして頸を切るというものでした。国家公務員法や公労法で規定されている救済措置などは一切適用されないという法律がまかり通って、国鉄9万5000名、全逓3万6000名をはじめとして実数20万弱の官公労働者が行政整理の対象とされました」(斎藤弘平『労働運動史』)

A国鉄ストと人民電車(49年6月)

▲49年6月10日 国鉄ストと人民電車

・東神奈川、蒲田、千葉、中野の車掌区や電車区で、人員整理の前段としての新交番に反対する闘争。これに対する解雇処分に東神奈川車掌区がスト突入。
・と同時に、乗客が要求するときは組合が勝手に電車を動かす=人民電車。
・最終的にはGHQ命令で中止、大量の解雇。

B下山・三鷹・松川事件
・下山事件−−49年7月5日に下山国鉄総裁が常磐線で、礫死体となって発見された事件。
・三鷹事件−−49年7月15日、中央線三鷹電車区に留置中の電車が暴走し、死者8名・重傷者9名を出した事件。
・松川事件−−49年8月17日に起きた東北本線松川駅近くの列車転覆事件。機関車乗務員3名が死亡。

・はっきりしていることは、3つの事件が、なんの根拠もなしに共産党、国労の仕業として宣伝され、フレームアップされた事実。
・「権力によるフレームアップ粉砕」というべきを共産党は「CIAによる謀略」。
 一切の闘争を放棄。
 →闘いを裏切り、抑圧する役割を一貫して果たしてきたことを隠蔽する、開き直る性格。
 (中野洋『戦後労働運動の軌跡と国鉄闘争』)

C資本主義の再建−49年の敗北
▼国労や全逓で、共産党系の役員を排除・一掃、これを容認する論理が公労法。
・「公共企業体の労働組合はその職員によって構成される」
 →当時の民同はこれを使って、共産党系のレッドパージ、解雇攻撃に協力
 →国労、全逓の分裂
 「・・・全逓は分裂したとたんに、大衆は離散してしまったからであり、分裂が組合の瓦解となったからである」(斎藤一郎『戦後労働運動史』)

▼国鉄をめぐる攻防と日共の敵対
・「定員法による大量首切りにたいして、労働者は共産党を無視して国鉄を中心に全逓、全官公庁、東芝との共闘をもって闘いに決起」
・「日共は国鉄労働者に『革命』の名をもって闘争の放棄を説法。国鉄の闘争は日共の闘争の絞殺と三鷹、松川事件による権力の弾圧によって一瞬にして崩壊」(革共同労対部『戦後革命の敗北』)


・「日本共産党が、・・・二段階革命戦略にもとづいて、労働者階級の資本に対する闘争をすべて抑圧したことによって、49〜50年の大資本攻勢に対する階級的反撃の道が封じられ、日本労働者階級は壊滅的な打撃を被り、戦後革命は致命的敗北を喫したのである」
・「かくして、49年から59年にいたるわずか1年半の歳月の間に、日本労働者階級は、戦闘的労働者を一挙に失い、戦後闘いとってきた諸権利を完全に奪われたのである。すなわち、49年来の潰走こそ、資本家的再建を図る資本家階級の階級的攻撃に、戦後革命が最終的に絞殺された過程であった」(革共同労対部『戦後革命の敗北』)


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